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2010 WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」

[访谈翻译] 首藤刚志动画创作手记 第222回:“系列构成的极限”(中央公园暴雨落败、未成形的斯巴达克斯式宝可梦起义与辞退剧场版第4作)

首藤刚志 × 汤山邦彦 × 林原惠 × 三木真一郎 × 犬山犬子 × 押井守 × 汤浅政明 × 森见登美彦

WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」 2010.05.19 约 19 分钟 原文 ↗

01

第222回 系列构成的极限:中央公园暴雨落败、未成形的斯巴达克斯式宝可梦起义与辞退剧场版第4作

前回書いた、土砂降りのセントラルパークでの経験で、僕の中の何かが吹っ切れたような気になった。

上一回写到的在纽约中央公园遭遇那场倾盆大雨的经历,仿佛一下子冲垮了我心中某种执拗的羁绊,让我彻底释怀了。

うまく表現できないのがもどかしいが、自分なりにこだわっていた『ポケモン』への気持ちがどうでもよくなってしまったのだ。

虽然难以用准确的言语表达那种焦灼,但此前我自己对《宝可梦》所倾注的那份近乎偏执的心境,在那一刻突然变得无足轻重了。

比べる方が無茶なのだが『ポケモン』を媒体にして何かを表現しようとしても、おそらく誰の意思も関係なく降ってくる土砂降りの雨にはかなわない。

拿这两者相提并论或许纯属无理取闹,但无论我试图借由《宝可梦》这个载体去倾注并表达些什么,都绝不可能敌得过那场完全不以任何人的意志为转移、轰然倾泻而下的滂沱暴雨。

様々な人種の子供たちが土砂降りの雨の中で思っただろう、「雨が早く止まないかなあ」という共通の気持ち。『ポケモン』で何を表現したところで、単なる自然現象でしかない土砂降りの雨ほどの共通の意識を、子供たち(大人も含めて)に持たせることはできない。

在那场骤雨中,来自世界各个不同种族的孩子们心中所萌生的,无疑都是同一个纯粹的念头:‘这暴雨怎么还不快点停啊。’任凭你在《宝可梦》里倾注再宏大的主题表达,也绝不可能像这纯粹出于自然现象的倾盆大雨那样,能让所有的孩子们(乃至大人们)瞬间拥有如此高度统一的普遍共情与共同意识。

僕が日ごろ書いている脚本は、何かのテーマを主張するようなものではないつもりだ。

在我平素执笔剧本的生涯中,我本就从未打算高高在上地去宣讲或主张什么宏大高深的主题。

完成した作品を見て、何かを感じてください……である。

我始终坚持的姿态不过是:请观赏最终完成的成片,然后凭借您自己的内心去感受些什么即可……仅此而已。

土砂降りの雨にあって、何かを感じてください――似ているような、似ていないような。違いと言えば、片方は人為的であり、片方は自然現象である。

‘置身于倾盆大雨之中,去感受那份震撼吧’——这两者似像非像。若硬要说有什么本质区别,不过是一方出自人为造作,而另一方则是浑然天成的自然现象罢了。

ところで、今までこのコラムで書いてきた僕の脚本についての解説は、あくまでこういうつもりで書きましたが、みなさん、いかがお感じになりましたか?――である。

话说回来,迄今为止我在这篇专栏中所写下的对自己剧本的种种解密,其本质也不过是向大家摊开内心:‘我当年其实是怀着这样的初衷去写的,不知各位观众看后究竟产生了怎样的体悟呢?’——如此而已。

脚本を書いた者が自分の脚本について語るとしたら、「書いたつもり」のことを語るしかない。

一个亲笔写下剧本的编剧,如果要回过头来谈论自己的作品,他能诉诸文字的,充其量也只有自己当初‘自以为写了什么’的那点初衷。

読みようによっては、でき上がった作品への脚本家からの弁解にとられても仕方がない。居直っているように読めるところもある。

根据读者的不同理解,这些文字难免会被人视为编剧在成片出炉后做出的无力辩解,某些段落甚至读起来像是在胡搅蛮缠、死不认错。

しかしそれは、脚本家の書くこのコラムが嫌でも持ってしまう性格のようなものかもしれない。

但这或许就是一位编剧执笔写下这种自传式专栏时,避无可避、无论如何都会自带的原生宿命吧。

僕の「書いたつもり」を、作品を見たあなたがどう感じたかは、あなたの勝手である。

对于我‘自以为写下的意图’,观赏了作品的你究竟感受到了什么,完全取决于你自己的自由裁量。

お前の「書いたつもり」は私たちには全然伝わらないよと言われれば、「あ、そうですか。すいません」が僕の姿勢である。

倘若有人指着我的鼻子说‘你自以为写出来的那些玩意儿我们根本一丁点都没接收到’,我的态度向来都只是坦然认栽:‘啊,是这样吗?实在对不住您嘞。’

それでも、往生ぎわ悪く「僕の書いたつもり」は伝わらなくても、「何かは感じたでしょう?」と思いたいのが、僕の正直な気持ちである。

即便如此,如果非要说我还有什么死不瞑目的执念,那就是即便‘我自以为写出的深意’未能传达到位,我也极度渴望自作多情地期盼:‘即便如此,你多少还是感受到了一丝什么触动吧?’这便是我最赤裸的真心话。

でなければ、僕が何を書いても、それは他の人にとっては無意味な僕のマスターベーションに過ぎなくなる。

否则的话,不论我日夜笔耕写出什么,对于旁人而言都不过是毫无意义的我个人的精神自渎罢了。

世の中には作家のマスターベーション的なものがいくつもあり、それが評価される場合も多い。

世间充斥着形形色色作家自我陶醉、精神自渎式的产物,并且其中不少竟然还能收获极高的文艺赞誉。

特に、日本には私小説という分野があり、その手の作品が好まれる傾向がある。

尤其在日本,存在着一个名为‘私小说’的庞大流派,社会风气向来对此类作品青睐有加。

僕は、そういう類のものは見るのも読むのも書くのも苦手なタイプなようだ。

然而我生来似乎就是一个不论看、读还是写,都对这类敝帚自珍的东西敬谢不敏的人。

「なんだかごちゃごちゃ表現したがっているけれど、そんなものは人に見せずに勝手に自分で処理しろ。見せられるこっちは迷惑だ」と、思ってしまう。

我总会忍不住在心底嗤之以鼻:‘虽然你满脑子翻江倒海地渴望表达,但那种个人排泄物就别拿给外人看了,自己找个角落处理掉好吗?被你硬塞到眼皮底下的我们只觉得不堪其扰。’

表現とは、相手あってのものである。

所谓‘表达’,必须是建立在存在受众对方的前提之下的。

自己満足は表現ではない……と思いたい。

单纯的自我满足绝不配称之为表达……至少我宁愿这么坚信。

しかし、僕が経験したセントラルパークの土砂降りの雨は問答無用である。

然而,我在纽约中央公园亲身领教的那场暴雨,却是绝对的不由分说、霸道至极。

強引に、当事者の気持ちを一つの方向に向けてしまう。

它强横无匹地将身处其中的所有人,强行拽向了同一个单纯而极致的心境方向。

おまけに、そこにはアクセントとして、その雨の中で喜々として踊っている黒い肌の2人の子供までいる。

更有甚者,作为这场暴雨神来之笔的绝妙点缀,雨幕中竟然还有两个黑皮肤的孩子在欢呼雀跃地纵情起舞。

そこに展開される情景は、土砂降りの雨という自然現象が作りだした、見事でドラマティックな作品だ。

在那片天地间铺陈开来的宏大图景,正是倾盆暴雨这一自然天象所一手缔造的、登峰造极且震撼人心的戏剧性杰作。

しかもそれはドラマではなく現実である。

而且它根本不是虚构的戏剧,而是货真价实的现实。

かなわないな……と僕は思った。

‘比不过啊……根本敌不过啊。’我站在雨檐下自言自语。

「人間ってなんて小さな存在なんでしょう」などという表現は、世界中にある、有名で壮大な大自然の風景を前にして、よく使われる。

诸如‘人类在大自然面前究竟是多么渺小微不足道的存在啊’这类感慨,常常被人们用在伫立于世界各地著名而宏伟的自然名胜奇观之时。

僕の場合、それがニューヨークのセントラルパークの子供向けの広場の、多分、年間によくあるだろう土砂降りの雨の中でだったというのが、ちょっとせこい感じもしないこともないが、ともかく感じてしまったのだからどうしようもない。

而在我的际遇里,这一震撼却偏偏发生在纽约中央公园一个普普通通的儿童游乐广场上、一场一年当中不知要下上多少回的寻常暴雨之中;尽管这听起来多少显得有些寒酸可笑,但既然灵魂确实遭受了这番雷击般的洗礼,我也只能坦然认命。

余談だが、5歳から9歳まで北海道で育った僕は、広大とか壮大とかいう大自然には免疫ができてしまい、例えば子供の目線で見た北海道の根釧原野は大人の目で見たシベリアの原野より広く、さらに記憶の中で膨れ上がっている(子供目線と、記憶の中での膨張した印象について意識しておくのは、子供の世界を描くときにかなり重要だと僕は思う)。

顺便扯句闲话,由于我从五岁到九岁是在广袤的北海道度过的,因此我对所谓的‘浩瀚广袤、雄奇壮观’这类大自然奇景早已产生了免疫力。比方说,当年以幼童视角所仰望的北海道根钏原野,其浩大程度在我的认知里甚至远超成年人眼中所见到的西伯利亚荒原,并且在漫长的岁月记忆中被无限发酵膨胀(时刻保持对‘儿童视角’以及‘童年记忆在脑海中不断膨胀的印象法则’的自觉,对于描摹儿童世界的创作者而言是极其重要的关窍)。

というわけで、僕は、いわゆる大自然の驚異という景観には、ほとんどびっくりしないのである。

正因如此,世人常年称颂的所谓‘大自然的惊世奇观’,在我眼里几乎很难掀起波澜。

まあ、宇宙から地球を見たら、違う感慨を持つだろうが、そんな機会はなさそうだし、多分それが可能だとしても、「宇宙はでっかい」とは思わず、「地球ってちっけえなあ〜」と感じる気がする。

哎,倘若有朝一日真能从太空中俯瞰地球全貌,或许会有不一样的感慨吧;不过那种机缘大概与我无缘,即便当真成了真,我也绝不会赞叹‘宇宙何其辽阔’,而只会脱口而出:‘地球这玩意儿未免也太小了吧~’。

何をぐだぐだと書いているのか? それが「ポケモン」と何の関係があるのかというと……つまり『ポケモン』アニメで何かを表現するには限界がある、もっと大きなものが必要だ、ということだ。それが何かは今だに分からないが。

我在这里絮絮叨叨写了这么大一堆究竟想说什么?这又跟《宝可梦》到底有何干系?——答案就在于:借由《宝可梦》这部动画想要去承载和表达深邃的主题,本身就是存在绝对极限的,想要跨越这层天花板,就必须依赖某种更为恢弘宏大的力量。而那究竟是什么力量,坦白讲直到今天我都未能参透。

しかもそれは、大きいといってもセントラルパークの土砂降り程度のものでいいのである。しかし、そんなものを人間が作り出せるか? 無理でしょう……と、あっさりとした敗北感を感じたのである。

而且所谓宏大的力量,其实甚至只需达到中央公园那场突如其来的倾盆暴雨的程度便足矣。然而,那种震撼人心的东西,当真能够由凡人一笔一划凭空捏造出来吗?根本不可能吧……那一刻,我心头油然而生的是一种极其干脆利落的彻骨败北感。

その敗北感は気持ちがよかった。

奇妙的是,那份彻底的败北感,竟然让人感到前所未有的舒畅与快意。

それでも、病みあがりで2人の女性と1人の女の子を連れたニューヨークのいきあたりばったり旅行はくたびれもした。

话虽如此,拖着大病初愈的残破身躯,领着两位成年女性和一个五岁小女孩在纽约街头进行这场漫无目的的随机旅行,着实把我折腾得筋疲力竭。

傍目にもくたびれは見えていたらしく、あるプロデューサーから「普通でも疲れるのに、退院後にニューヨークなんて無茶だよ」と言われた。

我身上的疲惫之态在旁人眼里显然暴露无遗,以至于后来某位制片人直言不讳地数落我:‘换作常人去趟纽约都要累掉半条命,你刚从急救病房出院就飞纽约,简直是胡闹玩命!’

そして、いつものようにポケモンの脚本会議がはじまった。

回到日本后,日常的《宝可梦》动画剧本例会如期重开。

会議には出ているものの、ほとんど、ぼーっとしていた。

我虽然人坐在会议室里,但整个人脑子里几乎一片空白,神游天外。

出ているだけで疲れて気を失ったように眠ってしまい、総監督から、机の下で足をそっと蹴られて目を覚ましたこともある。

光是端坐在那里就耗尽了我的全部体力,几次甚至像昏厥过去一般直接睡死了过去;甚至出现过总监督(汤山邦彦)在会议桌底下悄悄用脚踢我的小腿把我踢醒的尴尬场面。

いささか、反省した。

事后回想,我心里多少有些愧疚与自责。

映画の4作目を書こうとも思ったが、何も思いつかない。

我虽然也曾想过继续执笔系列第4部剧场版电影,但脑海中却无论如何都搜寻不到任何灵感火花。

書くとしたら、僕個人が最終エピソードとして想定していた、ポケモンによるローマ時代のスパルタカス的反乱(一見、友達のような関係に見えて、実は奴隷的な使われ方をされていることに気づいたポケモンたちが反乱をおこす)が勃発、ピカチュウがリーダーになり、サトシと戦わなければならない状況になり、その戦いの仲裁に、ダメなポケモンを可愛がっているロケット団トリオ(ポケモンの言葉を人間語に通訳できるニャースがいる)が、いい加減な通訳をしながら大活躍をする……ぐらいしかなかった。

如果要我硬写,我脑海中唯一剩下的,唯有我个人一直作为整部《宝可梦》全系列‘真正最终结局’所构想的终极物语——那是一场犹如古罗马斯巴达克斯起义般的宝可梦大叛乱:平日里看似与人类建立着所谓亲密友谊、实则终于惊觉自己不过是被当成宠物与工具奴隶般使唤的宝可梦们,终于掀起了浩浩荡荡的武装起义;皮卡丘被推举为起义军的最高领袖,不得不与小智兵戎相见、反目成仇;而在人类与宝可梦撕裂的决战战场中央,唯有平日里真心疼爱着各种劣等废柴宝可梦的火箭队三人组(身边跟着唯一通晓人类语言的喵喵),一边靠着喵喵颠三倒四、漏洞百出的同声传译,一边作为和平调停者在千钧一发之际奔走挽救大局……充其量也就只剩这么一个惊世骇俗的构想了。

しかし、そんな『ポケモン』アニメの掟破りのようなエピソードは、シリーズが続けられる間は続けようとする方針の『ポケモン』アニメでは不可能である。できるとしたら、文字どおり、最終のエピソードだろう。

然而,这种几乎等同于把《宝可梦》动画根基连根拔起的逆天破戒剧本,对于早已确立了‘只要还能继续播就必须无休止长寿续订下去’商业方针的《宝可梦》制作委员会而言,是绝对不可能允许面世的。就算真有被允许制作的一天,那也绝对得是名副其实的系列最终回落幕之作。

他のエピソードを考えようとしても出てこない。

可一旦排除这个构想,任凭我绞尽脑汁,也再也挤不出任何其他像样的电影故事了。

話が前後するが、「ニャースのあいうえお」という、ニャースが人間語を話せる由来エピソードは、ロケット団のニャースが人間語を話すという設定が決まっていたころから考えていた。

话分两头,其实当年由我执笔的无印篇第71集《喵喵之歌》(ニャースのあいうえお,即解释火箭队喵喵为何会说人类语言的起源回),早在当初敲定火箭队喵喵会讲人话这一设定的最初期,我就已经在构思了。

人間になろうとして人間になれず、ポケモンのニャースとしても特異な存在になってしまったロケット団のニャース――ある意味、クローンポケモンであるミュウツー的な存在が、人間とポケモンとの戦いの仲裁に生きがいを感じ、大活躍する。

一只拼尽全力想要变成人类却终究无法成其为人、在宝可梦同类眼中又沦为怪胎异类的火箭队喵喵——在某种层面上,它恰如克隆宝可梦超梦一般的悲情存在;而让它在最终人类与宝可梦的大暴动决战中化身为唯一的沟通桥梁,在此找到属于自己的生存意义并大显身手。

「ニャースのあいうえお」は、そんな最終エピソードの伏線にするつもりだった。

我当年写下《喵喵之歌》,从一开始就是为了给那个终极结局埋下的最关键伏笔。

他に映画的なエピソードを思いつかない僕は、映画の4作目を降ろしていただいた。

既然再也拿不出其他具备电影分量的宏大篇章,我便主动向高层恳请辞退了第4部剧场版的编剧一职。

4作目を担当することになった脚本家の方から、映画の興行成績が落ちてきた頃だったからか(それでも他の映画と比べたら図抜けていた)「勝ち逃げですか?」と言われたのを覚えているが、映画になるようなエピソードが僕には思いつかないのだから、むしろ、「負け逃げ」と言われたかった。

我还清楚地记得,后来接替我接手第4部剧场版的编剧同仁,大概是因为当时电影票房相比前两作的高峰期有所滑落(即便如此对比其他同期日本电影依然是一骑绝尘),曾带着些许讽刺对我说过一句:‘首藤先生,您这是打算见好就收、打赢了就开溜(勝ち逃げ)吗?’可在我心里,既然是因为自己才思枯竭再也编不出像样的剧本而主动退场,与其说是‘打赢开溜’,倒不如直接骂我是‘彻底输光、落荒而逃(負け逃げ)’才更符合事实。

で、映画の代わりに書かせてもらったのが、スペシャル番組の『ミュウツー我ハココ二アリ』である。

于是,作为退下剧场版一线的替代,我争取到了执笔电视特别篇动画《超梦!我就在这里》(ミュウツー!我ハココニアル,即《超梦重现》Mewtwo Returns)的机会。

ミュウツーの話は、一応、僕自身でケリをつけたかったので書いた。

超梦这个角色是我亲手赋予灵魂的存在,无论如何,我都想用自己的笔锋为他的命运给出一个彻底的交代与了结。

この作品、地方によっては、一度に放映されるのではなく、3週連続で放映されるところもあり、1話から2話、2話から3話へと続く山場の位置に気を使うのと、ミュウツーエピソードの最終回にするために、かなり時間がかかった。

这部特别篇在某些地方台并非一次性播完,而是被拆分为连续三周的连载形式播出,为了在第1集切入第2集、第2集切入第3集的断点处精准设置悬念高潮,同时又要将其打造成超梦个人故事的绝对终章,我耗费了极大的心血与极为漫长的推敲时间。

同時期、ついでと言っては妙だが、シリーズ構成(コンストラクション)も、降ろしていただいた。

也就是在同一时期,说来有些顺水推舟,我向制作方正式请辞了电视动画的‘系列构成’(Series Construction)总编剧职务。

考えてみれば、『ポケモン』アニメはバトルゲームのアニメ化である。

静下心来仔细想想,《宝可梦》动画归根结底是一部电子对战游戏的衍生改编动画。

見せ場はどうしても、ジム戦やリーグ戦のバトルになる。

全剧最具商业看点的高潮核心,注定绕不开道馆挑战赛和联盟大赛的宝可梦激斗。

別に意識したわけではないが、僕は、シリーズ構成でありながら、バトルの勝ち負けが決め手になるジム戦やリーグ戦のエピソードを書いていない。

虽然并非刻意为之,但我作为整部动画的系列构成,却在此前漫长的主笔岁月里,从未亲自动手写过哪怕一集以胜负定乾坤的正统道馆赛或联盟战剧本。

戦いの勝敗で一喜一憂する話を、僕は苦手にしている。

对于那些单纯依靠战斗胜负来牵引观众情绪起伏、患得患失的故事,我打心底里感到排斥与笨拙。

バトルエピソードを無意識に避けていたのかもしれないし、あえて書きたいと思わなかったことも確かである。

我或许是在潜意识中一直在避开宝可梦对战回,但可以肯定的是,我也从未发自内心地想去写那些打斗胜负。

しかし考えてみれば、バトルゲームのアニメ化のシリーズ構成がバトルエピソードを書かないのは、変である。

可仔细一琢磨,一部对战游戏改编动画的总编剧,居然从不写核心对战剧本,这本身就是极其滑稽而畸形的事情。

ともかく、初期は『ポケモン』のアニメシリーズを軌道に乗せることを考えていたから、できるだけパターンに陥ることのないよう、毛色の変わったエピソードばかりを書いていた。

无论如何,在动画开播初期,我的全部精力都在于如何让这部崭新的长篇动画迅速走上正轨,因此为了尽可能避免陷入套路化模板,我总是挑那些剑走偏锋、气质怪异的偏门回亲自主笔。

どうせ書くならパターンでないエピソードを書きたかったことも確かだ。

既然横竖都要写,那我打心底里就只想写非模板化的非常规故事,这一点毋庸置疑。

しかし、10年以上続けるとなると(事実、続いている)、かなりきつい。そうなると、ある種のお約束も必要である。パターンも慣れれば強いのだ。

然而,一旦一部商业动画要无休止地连播十年以上(事实上它确实播了这么久),这种坚持就会变得难以为继。若要长期维持,就不可避免地需要依赖某种‘约定俗成’的公式;固定套路只要磨合成熟,其实拥有极其强大的商业惯性。

そのパターンが、僕には辛い。シリーズ構成としての僕には向いていない。

可那种刻板的公式化套路,对我而言简直如同受刑。我绝不适合担任这种模式下的系列构成。

それに、『ポケモン』のシリーズ構成に限り、それまでのシリーズ構成作品ほど全体的な工夫を僕はしていない。

更何况,唯独在《宝可梦》这部作品的系列构成任上,我并没有像在以往其他担任系列构成的作品中那样,从宏观上做出全盘操控与精雕细琢。

他の脚本家の方の脚本に直接手を入れたのは1回だけ、それも数行だ。

在我的任期内,我直接上手修改其他编剧同仁剧本的情况仅仅发生过一次,而且仅仅改动了寥寥数行台词。

僕のシリーズ構成作品につきものの、へんてこりんな予告も書いていない。

就连以往凡是由我挂名系列构成的作品中必不可少的、那些稀奇古怪风格独树一帜的下集预告,在《宝可梦》里我也完全没有去写。

他の方たちのシリーズ構成法はどんなものか知らないが、僕としては、自分流のシリーズ構成はしていない。僕流のシリーズ構成は、いてもいなくてもいいような気がしていた。

我不知道业界其他同行是如何运作系列构成的,但对我而言,我自始至终都没有在《宝可梦》里推行属于我首藤刚志风格的系列把控。某种意义上,有没有我这个‘首藤流’的总编剧挂在那里,似乎根本无关痛痒。

さらに、脚本制作状況を把握して、その記録をつけ、いろいろ脚本のアイデアを出すプロデューサーの方もいた。

加之制作团队内部有非常干练的制片人,他们全程精密把控剧本进度、详尽记录台账,并源源不断地提供各种切实可行的剧本灵感。

それに、アニメ化開始当初はともかく、映画のヒットやゲームの売れ行きやグッズの売れ行き拡大など、ビッグプロジェクトになってしまった『ポケモン』は、妙な工夫をして失敗をすれば、関わる人が膨大なだけ、影響が大きい。

加之自开播初期之后,《宝可梦》凭借剧场版的大爆、原作游戏与海量周边狂潮,已经演变为了一个牵扯巨大资本与各方利益的超级巨无霸项目;一旦我随意出于个人趣味耍小聪明搞怪而导致口碑翻车或商业失利,牵涉到的人员基数实在太过庞大,其负面冲击是灾难性的。

旅客機の機体やJRから、バッタもののぬいぐるみ(それはそれで、それを作る人の生活がかかっている)まで、ともかく、失敗が許されないものになっていた。

从全日空客机机身的彩绘、JR东日本的联名专列,一直到底层作坊里生产的山寨宝可梦毛绒玩偶(哪怕是山寨货,背后也系着底层工人的生计温饱),《宝可梦》已经变成了一个绝对不允许任何失误的庞然巨兽。

そこに、セントラルパークの土砂降り体験である。

偏偏就在这个关头,我遭遇了中央公园那场荡涤心灵的倾盆暴雨。

なんとなく気が抜けて、『ポケモン』のシリーズ構成が辛くなっていた。

我身上的那股紧绷的心气彻底泄了,继续霸占着《宝可梦》系列构成的交椅让我感到痛苦万分。

僕は辛さを人に見せないタイプではない。露骨に見せる困ったタイプである。

我又不是那种打碎牙齿往肚子里咽、善于隐藏痛苦的成熟大人;我是那种一旦觉得难受就会毫无遮掩地露骨写在脸上的麻烦类型。

そんな時、体力、気力、喪失。体調不良。他の人の目からは、そうとうひどい状態に見えるようだ。

在那段时间里,我体力与心力彻底透支,体况一落千丈。在旁人眼里,我的状态显然已经凄惨到了极点。

そして、プロデューサーから言われた。

终于,制片人主动来找我谈心了。

「1、2年、すこし休んだら? 大丈夫。『ポケモン』は、2年後3年後どころか、当分続くから」

‘首藤先生,要不您先休养个一两年吧?放宽心,《宝可梦》不仅两三年内倒不了,还会一直红红火火播下去呢。’

とりあえずシリーズ構成なしで続けるという。

制作方决定,暂时在不设‘系列构成’一职的状态下继续推进制作。

プロデューサーの方たちが、『ポケモン』アニメのパターンが確立したと思ったのか、なんにもしないシリーズ構成はいらないと思ったのかは知らない。

我不知道制片方究竟是认为《宝可梦》的商业公式已经彻底坚不可摧,还是单纯觉得我这个尸位素餐、什么都不管的总编剧实在多余。

そう言われると、まだパターン化は早すぎる気もする。

可听到他们这么说,我心里又隐隐觉得,现在就把整部作品彻底套路化模板化,未免有些操之过急了。

で、「シリーズ構成はやめさせていただきますが、月に1本ぐらいは……」なんて言ってしまった。

于是我嘴欠接了一句:‘虽然我辞去系列构成职务,但如果只是一个月写一集单话剧本的话,我或许还是可以……’

なんのことはない。月に1本なんて、シリーズコンストラクションのタイトルがついていたころより、きついペースである。

这纯属自讨苦吃。每个月交出一集完整的单话剧本,其工作强度甚至比我挂着系列构成头衔的时候还要严苛繁重!

しかも、今まで以上にパターンにはまらない風変わりなエピソードを書くことに、自分で決めてしまった。

更要命的是,我自己还在心底暗下决心:既然退下来单写,我就必须写出比以往更加天马行空、绝不落入任何公式窠臼的特异故事!

僕自身、かなり急に決めてしまったので、オープニングシーンの制作都合で、シリーズコンストラクションを止めた以後にも僕の名が記されている場合もあるが、それもやがて消え、しばらくの間、『ポケモン』アニメにはシリーズ構成も、シリーズコンストラクションの名もない時代が続くのである。

因为这一决定下得极为仓促,由于片头OP动画制作工期的周期差,在我正式辞去职务后的一段时间里,片头依然打着我作为‘系列建设’(Series Construction)的署名;但不久之后那个头衔便彻底消失了,《宝可梦》电视动画在长达数年的时间里,步入了既无‘系列构成’也无‘系列建设’署名的独特真空期。

当時、禁煙中だった僕と総監督(彼は今も煙草を吸わない)がいるにもかかわらず、1時間ごとに入れ替わり立ちかわり入ってくる脚本家の方たちには煙草を吸う人もいて、僕の座る椅子はクーラーの前で、つまり、クーラーに吸い込まれる煙草の煙が僕を直撃し、それが堪らずシリーズコンストラクションを降りた……という噂があるようだが、それほど、いいかげんな理由で辞めたのではない。『ポケモン』のシリーズコンストラクションとして、限界だったのだ。

坊间一度流传过一个谣言:说当时正在戒烟的我与总监督汤山邦彦(他至今依然滴烟不沾)坐在一起开会,但每小时轮番进出的各话编剧里不乏老烟枪,而我的座位恰好背靠空调吸风口,导致整个房间吸入的二手烟如数直冲我的面门,我实在不堪烟雾折磨才愤而辞职……然而,我绝不可能因为这种鸡毛蒜皮的荒唐理由就撂挑子。《宝可梦》动画的系列构成工作,对于我个人的创作生命而言,是真的已经到达了粉身碎骨的绝对极限。

ただ、シリーズコンストラクションを降りた後、かなり心残りだったのは、ロケット団トリオの行く末である。

唯独在辞任系列构成之后,我心中唯一始终难以割舍、放心不下的牵挂,唯有火箭队三人组的最终归宿。

だから、降りて以後、一脚本家として書いた『ポケモン』の脚本では、ロケット団トリオをかなり意識している。

正因如此,在退居普通客座编剧之后所执笔的极少数《宝可梦》剧本里,我始终在字里行间极具自觉地维护与刻画着火箭队三人组的灵魂。

現在もエピソードを作るには何かと便利なロケット団トリオだが、あんまりパターンの間抜け悪役にはしないでほしい。

时至今日,火箭队三人组依然是制作团队构思每一集单元剧推进剧情时极其趁手好用的工具人;但我打心底里恳求后来的创作者们,千万不要将他们彻底降格为千篇一律、脸谱化的愚蠢滑稽小丑。

それが、少しだけ気になっている。

唯有这一点,始终让我心中隐隐作痛。

番組開始当初、『ポケモン』アニメの主役になって見せると、やる気満々だったロケット団トリオ役の声優さんの顔と声が、今も時々浮かんでくる。

在节目刚刚开播的最初期,火箭队三人组的声优老师们(林原惠、三木真一郎、犬山犬子)曾满腔热血地宣誓‘我们一定要把火箭队演成这部动画真正的隐形主角!’;那几张神采飞扬的面容与鲜活的声音,直到今天依然不时浮现在我的眼前。

あれから、十数年かあ……。

一晃眼,距离那个起点,竟已过去十数载春秋了啊……

つづく

(待续)

02

●昨日的我(比起近况杂谈不如说是人人都能胜任的编剧指南)

ここ数年のアニメ映画は、やたらと面白い。約1本……日本の戦艦が宇宙を飛んでいくアニメを除いては、『8月のシンフォニー』という、ほとんど映画館にお客がいなかった渋谷のアイドル歌手(『ようこそようこ』じゃありません)のプロモーションアニメにしか思えない作品ですら、あの手この手で、一所懸命工夫している。

最近这几年的日本动画电影,着实有趣得令人惊叹。除了某一部……某艘日本大和战舰飞向宇宙的动画之外,哪怕是像《8月的交响曲》(8月のシンフォニー)这种在涉谷电影院里几乎见不到几位观众、本质上看起来宛如宣传涉谷地下偶像歌手的定制动画(顺便一提并不是当年的《欢迎齐藤洋子》),全片也在想方设法、拼尽全力地雕琢各种精巧的视听构思。

もちろんアニメ映画を全部見ているわけではないが、日本のアニメは日本のアニメなりの成熟期が来ているのは確実だろう。

虽然我并未将所有上映的动画电影尽收眼底,但日本动画正在迎来专属于其自身的真正成熟期,这一点毋庸置疑。

虚構と現実のわけわからなさに固執していたいい歳のおじさんアニメ大先生は、何を思ったか、突然、宮本武蔵のトンデモウンチク話を始めて、これがこの先生のアニメの中で一番面白かったりして、もっとも虚構と現実のごちゃまぜという意味では筋を通しているわけだから流石である。

那位上了年纪、长年执拗于在‘虚构与现实的界限模糊’中故弄玄虚的知名动画大导演泰斗(注:指押井守及其编剧作品《宫本武藏:双剑飞驰之梦》),不知哪根筋搭对了,突然煞有介事地大讲特讲起宫本武藏的荒诞掉书袋冷知识;而这部作品竟然成了这位泰斗近年来所有作品中最耐人寻味的一部,毕竟在将虚构与现实搅成一锅粥这一点上,他确实做到了逻辑自洽、贯彻到底,令人不得不道一声佩服。

虚構と現実の逆転という意味では、草食系のため口だらけのぼうやのモノローグが面倒くさかったテレビ版が実は予告編で、映画版が本編というアニメ。そのモノローグだらけで退屈させず2時間半以上を埋め尽くし、ついに本音を言ってしまうという超トリッキーアニメには、その本音には賛同しかねるが、ともかく唖然とさせられる迫力があり、このアニメ、TV版を見ていなくても分かるという極めて行き届いた配慮など、もはや大人の作風である。

若论及‘虚构与现实的反转’,还有一部动画电影堪称登峰造极:电视动画版里那个满嘴草食系随性碎碎念、让人觉得极其烦躁的小男生(阿虚)的大段独白,原来通通都只是这出大戏的漫长预告片,真正的重头戏正本全都在剧场版之中(注:指京都动画名作《凉宫春日的消失》)。整整两个半小时的超长片长,竟然全凭无休无止的心中独白彻底填满而丝毫不显沉闷冗长,直到最后终于逼迫主角倾吐出真实的内心渴望——这部手法极其诡谲刁钻的动画杰作,虽然我个人对其最终的心声结论并不完全苟同,但其铺天盖地的视听迫力足以令观者目瞪口呆;而且全片做到了即便观众从未看过电视版也能毫无障碍彻底看懂的细致体贴,这种调度功力已然迈入了真正成熟的大师之境。

オタク系男子で超満員のこの大長編アニメに限らず、どのアニメも、それなりの話法、作風を確立しつつあり、頼もしい限りである。

不仅是这部被各路宅系男生挤得座无虚席的超长篇巨制,如今每一部日本动画似乎都在逐步确立起专属于自身的话语体系与风格门派,这着实令人倍感欣慰与敬畏。

CGやらなんやらかんやら使いながらも、基本はリミテッドアニメのぎくしゃくぶりをしっかり武器にして、それぞれの世界を作り上げようとしている。

即便在制作中大量融入3DCG等各种现代数字化技术,其精神内核依然牢牢立足于有限动画(Limited Animation)特有的那种顿挫节律,并将其化为独门利器,全力构筑起各自自成一体的独特世界观。

今や日本の映画は、アニメである。

现如今真正能够代表日本电影脊梁的,正是动画。

実写映画にもこれはと思うものもあるが、よく見りゃ俳優のキャラクターに頼った、ほとんどひと時代前のアニメの模倣のような気がする。

当下的日本真人实拍电影偶有看似眼前一亮之作,但定睛细看,其本质全都在过度依赖台前演员的明星光环与人设,骨子里不过是对一个时代之前的旧动画拙劣的拙劣模仿。

で、問題は、今の花盛り状態のアニメに、脚本がどれだけ機能しているかである。

然而真正尖锐的问题在于:在这片看似百花齐放、如火如荼的动画盛世之中,‘剧本’究竟发挥了多大的核心职能?

それを考えると急に心細くなる。

每当思及此处,我心头便不由得一阵阵发虚与胆寒。

アニメの脚本は、誰でもできる脚本家では無理ではないか?

难道动画剧本的重任,已经不再是那种‘人人皆可胜任的庸碌编剧’所能驾驭的了吗?

新しい発想が必要とされているのではないか?

这个时代是否正在急切呼唤着颠覆性的崭新编剧思维?

不景気な世の中で、アニメ育ちの人たちが、火事場の○○力で作っているような今の日本アニメ……誰かが守ってやらなきゃいつか力尽きる日が来るかもしれない。

在经济萧条的大环境下,全凭一群吃着动画奶水长大的创作者在绝境中爆发出拼死求生的火场蛮力硬撑起来的当今日本动画产业……若无人出面守护与规范,终有一天会迎来油尽灯枯、轰然崩塌的黑暗时刻。

脚本は、アニメの力になることができるのだろうか?

剧本,究竟还能否成为撑起动画产业腾飞的真正基石与力量?

モノローグだらけといえば、京都の大学生生活のいかにもさ(?)を描いた深夜に放送中のアニメ、あの面白さは脚本の力とは思えない。モノローグは絵を追っかけている説明にすぎない。あれは脚本ではなく効果音である。あのアニメは、それがまさに効果的で面白い。

说到满屏独白,近期深夜档正在热播的那部将京都大学生的荒诞大学生活描摹得惟妙惟肖的动画(注:指汤浅政明执导、森见登美彦原著的《四叠半神话大系》),其让人拍案叫绝的趣味,在我看来根本不能归功于剧本之功。全片飞速倾泻的庞大独白不过是在疲于奔命地追赶画面并作解说罢了;那已经不是正统意义上的剧本台词,而是某种节奏极强的‘人声效果音’。在那部动画里,这种效果音确实被发挥到了极致,妙趣横生。

しかし、モノローグで用が足りるアニメだけが、アニメではない。

然而,并非所有动画都能够单凭机关枪般的内心独白就能糊弄过关。

モノローグが「ああ、いい脚本が欲しいなあ」と、ぼやく日がそこまで来ている気がする。

我隐隐感到,就连那些自言自语的独白本身,都在从心底发出哀叹:‘啊啊,我们真的好渴望一个真正扎实优秀的剧本啊!’——那一天,已然近在咫尺。

つづく

(待续)