2009 WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」
[访谈翻译] 首藤刚志动画创作手记 第197回:《洛奇亚爆诞》在自我主张中实现共存(从庄周梦蝶与全共斗幻灭谈起、反套路恶役与火箭队对剧本的强行主宰)
第197回 《洛奇亚爆诞》在自我主张中实现共存
映画『ミュウツーの逆襲』が自己存在をテーマにして、次の『ルギア爆誕』は、アクションアドベンチャーの形をとった、地球に生きるものの共存を見据えたものにしようとしたことは、すでに述べた。
正如前文所述,在电影第一作《超梦的逆袭》将“叩问自我存在”推向极致之后,第二作《洛奇亚爆诞》便决定披上动作冒险大片的外皮,正面凝视生活在这颗蔚蓝星球上的芸芸众生的“共存”之道。
で、その共存だが、その言葉だけをイメージすると、自己中心的でなく、相手の気持ちや立場も考えて、仲よく平和に生きていこうという、心やさしいフィーリングを思い浮かべてしまう。
可一旦提及“共存”二字,世俗常人脑海中往往只会先入为主地浮现出一种天真温存的刻板印象:凡事不以自我为中心、处处体谅对方的心情与立场、大家手拉手和和睦睦共享天下太平。
だが、僕の考える共存とは――かなりへそまがりに感じるられるかもしれないし、僕自身も、人が通常感じるイメージと違うだろうと自覚しているのだが――自分の自己存在を尊重し、自分の思い通りの生き方をして、なおかつ、気がつけば他の人(生物)も、一緒に生きているということなのである。
然而,我首藤刚志心中所认定的所谓“共存”——听起来或许显得格外离经叛道、乖僻别扭,连我自己都深知这与常人的世俗想象大相径庭——其真谛乃是:极度尊重自己的自我存在,毫无保留地按照自己最本心、最渴望的方式去活着,并在回过神时愕然发现,周遭形形色色哪怕与自己截然不同的他者生灵,竟然也奇迹般地与自己同生在这片天地之间!
世界の中心にいるのは自分であり、自分がいなくなれば、少なくとも自分の世界はなくなり、自分のいない世界はそれは世界ではない。
对于任何一个生灵而言,自己就是自己全部世界的绝对中心;一旦自己闭眼消逝,属于自己的整个世界便彻底荡然无存。一个没有我存在的世界,对于我而言根本就不能称之为世界!
自分とは関係ない別の存在である。
那不过是一个与我毫无瓜葛的冰冷虚无客体罢了。
そんな世界は、あってもなくても御本人にとってはどうでもいいものである。
这样一个没有我的世界,无论它存在还是湮灭,对于当事人我自己而言统统根本无关紧要。
人は、それぞれ違うものである。誰一人、同じ人はいない。それぞれが持つ自己存在の価値観も違う。
天下众人,生来千差万别,世上绝找不出两片一模一样的树叶;每个人身上承载的自我存在价值观自然也截然不同。
それぞれにとって何が大切か、それはそれぞれが思うことであって、「おまえはこう生きるべきだ」などと他人がとやかく口を出すことではない。
对于每个人而言究竟什么才是最重要的,唯有他自己的灵魂说了算,根本轮不到任何外人站在道德制高点上颐指气使:“你小子必须该这么活着!”
他人の生き方をとやかく言う人は多いが、自分の価値観を他人に押し付けて自己満足しているに過ぎない気がする。
世上成天对别人的活法指手画脚、说三道四的人多如牛毛;依我看,那些人不过是妄图把自己狭隘的价值观强加在别人头上,以此来满足自私的虚荣与控制欲罢了。
生き物の命には限りがある。
世间一切生灵的肉体大限皆有其终点。
死んでしまえば、その生き物の世界は終わる。
一旦停止呼吸咽了气,属于那个生命的全部宇宙便戛然而止、轰然落幕。
本人が死んだあとに、他の人がその人の価値をどう評価しようが、死んだ本人には無意味である。
在当事人死后,无论活着的后世闲人如何对他的功过是非评头论足、盖棺定论,对于那个已经化作灰烬的死者本人而言,没有哪怕一丝一毫的实质意义!
死んだあとに、どでかい墓が建とうと、野ざらしで捨てておかれようと、死んだ本人にとっては無意味である。
哪怕死后世人为你建造起再怎么巍峨豪奢的摩天陵寝,亦或是将你的尸骨如野狗般丢弃在荒郊野岭任由风化,对于已经死掉的你来说,没有任何区别与意义。
その人が、後世の人々に大きな影響を与える宗教、哲学、科学、その他もろもろを創造したとしても、他の人に対する影響は、死んだ本人には関係ない。
就算某位伟人在生前开创了深深影响后世千万年的宗教神学、哲学巨著抑或划时代的科学定理,这些学说对后世他人的宏大影响,对于长眠于地下的死者自己而言,根本毫无感知与瓜葛。
本人が死んだあとに、立派な人、または極悪人として歴史に名を残そうと、死んだ本人にはあずかり知らぬことになってしまう。
死后究竟是被史官尊奉为流芳百世的圣贤楷模,还是被世人唾骂为遗臭万年的恶贯满盈暴徒,对于那个化为尘土的当事人来说,早已是无从知晓的虚妄幻影。
本人が生きていればこそ、後世の人達や自分の死後残された人達にどう思われるかが気になるが、それはその人の生きているときの自己の価値観であり、自分が死んだらそんなものは無である。
唯有当肉身尚且跳动呼吸之时,人才会虚荣地去在意“后人和身边人将来会如何看待我”;但这不过是生者在活着那一刻的自我价值观投射罢了,一旦死亡降临,这一切统统归于绝对的虚无!
歴史上――その歴史もそれぞれの時代の権力の価値観でころころ変わるが――偉大な人物、尊敬すべき人物は山ほどいるし、感心せざるを得ない生き方や考え方をしたと伝えられる人物も多い。もっともそれは、誰からか教えられた知識を基準にしているにすぎないのだが……。
纵观人类浩瀚的青史——尽管那部历史也总是随着各个时代掌握生杀大权的统治阶级的好恶而肆意篡改涂抹——被吹捧为崇高伟大、值得顶礼膜拜的风云人物浩如烟海,其令人叹为观止的传奇一生也被后人传颂得神乎其神;然而说到底,那些认知充其量不过是世人被动灌输接受的二手知识罢了。
そんな人達への評価も、結局、自己存在の価値観が決めることだ。
对那些所谓伟人的全部盖棺定论,归根结底,依然是由审视者当下的“自我存在价值观”说了算。
愛、未知なものへの好奇心、自然、宇宙への畏怖、人間の持つ動物的な本能も自己存在あればこそである。
人类心底的爱与慈悲、对未知的炽烈探索欲、面对浩瀚宇宙与大自然的肃穆敬畏,乃至奔淌在骨髓里的动物性野性本能——这一切的一切,全都有赖于“自我存在”这一前提基石的成立!
自己存在は、本人が生きていればこそなりたつ。
唯有当一个生灵真真切切活在世上,“自我存在”才具备立足的实体。
耶稣与恺撒的绝叫、老庄“庄周梦蝶”——自我存在与死亡的冷峻现实
「世界は、自分を中心にして動いていると思うなよ」とよく言われるが、自分が死んだら自分の世界はなくなるのだから、やっぱり、「世界は自分を中心にして動いている」が正しいのではないか?
世上的大人们总喜欢告诫孩子:“别成天自作多情,以为整个世界都围着你转!”可是在我看来,只要自己一死,属于自己的全部世界立刻灰飞烟灭;从这个绝对真实的客观规律来看,断言“世界就是以我为绝对中心运转的”,难道不是最颠扑不破的至高真理吗?!
子供のころ、好きだった台詞がある。
在童年时代,有两句名留青史的戏剧绝叫台词曾深深震撼了我。
僕はキリスト教とは基本的に無縁な人間だが、キリストが磔にされた時漏らした最後の言葉「神よ、あなたは私を見放すのですか」と、シーザー(カエサル)が暗殺されたときに言ったという「ブルータス、お前もか……」である。
尽管我生平与基督教神学基本绝缘,但耶稣被钉死在十字架上那一刻所吐露的最后哀嚎——“神啊,你为何离弃我?!”;以及古罗马大帝恺撒(Caesar)在元老院惨遭亲信乱刀刺杀濒死之际的悲叹——“布鲁图斯,竟然连你也有份吗……”
どちらも、自己存在が基準になって、信じていたものへの疑問の台詞に感じたからだ。
这两句震碎心房的千古绝唱,无一例外全都是以自己无可替代的“自我存在”为原点,在生命即将熄灭的深渊边缘,向自己平生信奉的至高信仰所发出的悲怆终极叩问!
同じころ、幼いながらも老子や荘子が好きだった。……いわゆるタオである。タオとは何かという解説書を読むと、やたら難しくなるが、幼い僕は、「胡蝶の夢」の翻訳文にはまった。
几乎在同一时期,年幼的我不知为何竟深深痴迷上了中国古代的老庄道家哲学——也就是世人常说的“道(Tao)”。若去翻看那些学究们撰写的玄虚解说,往往只会被绕得云山雾罩;然而幼年的我,却唯独对《庄子》里那段脍炙人口的“庄周梦蝶”译文如痴如醉、深陷其中。
あまりに有名な文章だから、その説明は、このコラムを読んでいただいている方に失礼なのではぶくが……というより、説明すると相当難しいというのが正直な気持ちである。早い話が、今の自己存在は夢か現実か、よく分からないぞ……といったような意味である。
这段文字名满天下,在此赘述对于阅读本专栏的读者朋友未免失礼;实事求是地说,真要从学术上剖析它也着实深奥难解。但用大白话概括其核心:我们此刻所坚信的自我存在,究竟是蝴蝶做的一场大梦,还是冷冰冰的现实?连我们自己其实也根本分不清搞不懂啊!
どっちにしても、ご本人が生きていなければ、そんなことは思いつかないわけで、つまり、「人間、生きているうちが花なのよ……人間、死んだらおしまいよ」ってことだと、幼い僕は単純に感心してしまったのである。
然而不论怎样玄妙超脱,当事人若没有一口热气活在世间,根本连思考这一切的资格都不复存在。年幼的我当时得出的质朴顿悟无比粗暴:“人生一世,唯有活着的那一刻才算灿烂的花季;一旦咽气死绝,万事皆休!”
で、生きているなら、自分の可能な範囲内でやりたいことを好き勝手にやるのが理想ということになる。
既然活着,那么在自身能力所及的疆域内,尽情去做自己想做的事、按照自己最舒坦的方式放手去活,才是人世间最崇高理想的活法!
実際の世界は、飢餓状態にあり、その生きること自体が大変なのだが、戦後のいちおう平和な島国(おそらく一生、具体的な戦争状態を経験せずに済むのは、世界中で僕らの世代の日本人ぐらいではないかという気がする)に生まれた僕が、それを気にするのはずいぶん大人になってからである。
放眼全球现实,世界上多的是陷入饥荒与战火涂炭、连维持基本呼吸喘气都极其艰难的苦难角落;然而出生在战后这片承平日久的岛国日本(纵观全世界历史,终其一生不需要亲身体验现实战火硝烟的和平世代,大概全地球也就唯独我们这代日本人了吧),直到我年逾半百步入中年之后,才开始真正深思这层冷血的现实。
そんな日本の状態に甘えて共存を考えると、自己存在を主張しつつ、自分の好きなことをやり、なおかつそれぞれが生きていくということであり、そんなことは無理である。
倘若沉溺在日本这种养尊处优的温室环境中去奢谈所谓的“共存”——一边拼死主张自己的自我存在、随心所欲干自己喜欢的事,一边又妄图让所有人都能安然共处,这在现实中根本是绝无可能的痴心妄想!
人はそれぞれ違うものであり、自己存在を主張すれば、一般常識で言う共存は無理である。
每个人都是截然不同的独立生灵,只要每个人都在极力主张自己的自我存在,按照世俗通常定义的所谓“和平共存”,就注定是一条根本走不通的死路!
違うものが共存する……または、共存していると思うのは幻想である。
让本质截然不同的异质存在彼此共存……或者自欺欺人地以为彼此达成了共存,从本质上讲纯粹是一场虚妄的空中楼阁与集体幻象。
幻想であると思いつつ、共存をテーマにしようとしたのが『ルギア爆誕』なのである。
而《洛奇亚爆诞》最疯狂、最具野心的核心所在,恰恰就是要在明知其为镜花水月幻象的前提下,偏偏要以此为母题去正面挑战叩问!
なおここでは、家庭とか生まれた子供との共存は、考えていない。
顺便说明一句:在此处我并没有将血缘家庭内部、父母与亲生骨肉之间的所谓家庭共存计算在内。
それを考えると、共存幻想やら生き物の本能的な錯覚やらがごっちゃになり、それをシンプルにすると、なんだか人間の関係が冷たい方程式になり、家族向けの娯楽アニメでなくなるような気がしたのだ。
倘若把家庭血亲伦理也掺和进来,血脉本能的私心错觉与社会共存的宏大哲学就会彻底搅成一锅烂粥;若是强行用冷血理性去解构它,人与人之间的纽带就会异化成冷冰冰的残酷算式,整部片子立刻就会丧失全家欢商业娱乐动画的温情基底。
全共斗的幻灭与“共斗”的碎裂——人类本就是嗜好厮杀争斗的动物
いずれにしろ、僕は、人間の共存に対しては、「???」の気持ちを持っている。
无论如何,对于人类社会中所谓的“万物共存”,我打心底里始终写着一个大大的问号——“???”。
なぜそうなのかというと、僕の子供のころの個人的な環境が影響しているとも思うが、それはこのコラムの編集の方が許してくれれば、そのうち書こうと思う。
我之所以抱持着这种近乎顽疾的怀疑论,固然与我童年时代特殊的家庭成长环境脱不开干系;关于那段往事,如果专栏编辑老师日后能够网开一面允许,我或许会在随后的篇章中择机道来。
一般的に分かりやすいと言えば……もっとも、このコラムの読者の世代ではほとんど分からないと思うが、僕は、戦後ベビーブームの最後であり、東京の三流進学校にいたためか、安保改定の1970年前後の全共闘世代の最後であり、徹底したノンポリではあるが、全共闘の影響を少しは受けてしまい、どっちらけてしまった人間なのである。
但若从更容易让世人理解的历史大背景来看——尽管现在的年轻读者恐怕已经茫然不知所谓——我恰好身处战后第一代婴儿潮(团块世代)的尾巴,又恰逢身处东京的三流升学高中,因而成了1970年安保条约修订前后轰轰烈烈的“全共斗(全学共斗会议)”学运世代最后的见证者;虽然我骨子里是个彻底不问政治的边缘弃民,却也不可避免地沾染了全共斗的风暴余波,并最终陷入了彻底的幻灭与百无聊赖。
さらにどっちらけたのは、東京ではあれだけ大騒ぎした反体制学生運動が、ベビーブーム――いわゆる団塊の世代――の全体からすると、ごくごく少数の学生の戦争ごっこのようなものだった、と後で分かった事である。したがって、一般的に1970年は、安保の年ではなく大阪万博の年となる。
更为荒诞讽刺的是,当年在东京闹得满城风雨、如火如荼的反体制学生暴动运动,后来我才愕然查证:放在庞大的团块世代全体人口分母里来看,真正投身其中的竟然不过是极少数激进大学生在那里玩过家家式的“战争战争模拟游戏”罢了!放眼全日本的昭和国民记忆,1970年绝非什么流血抗争的安保学运之年,而是一片歌舞升平、象征着经济狂飙的“大阪万国博览会之年”!
僕の書いていることが分からない人は、一応、日本昭和の現代史だし、最近その種類の簡略説明本が山ほど出ているから、1冊ぐらい読んでほしい。
若是听不懂我在说什么的年轻读者,考虑到这是昭和日本无可回避的现代史切片,市面上也有汗牛充栋的通俗历史读物,不妨随手翻阅一本扫扫盲。
アニメ関係では、監督の押井守氏が、全共闘乗り遅れ世代だと自分で語っている。
在动画界,大名鼎鼎的押井守导演也曾亲口承认自己是个“赶不上全共斗热潮的迟到落伍世代”。
で、その全共闘だが、共闘という言葉は、ともに闘うという意味である。
所谓的“全共斗”,“共斗”字面上的崇高含义,是“携起手来并肩战斗”。
確かに、反体制という旗印は同じだったかもしれない。
表面上,大家摇旗呐喊高呼着“反体制”的崇高旗号。
しかし、中身はばらんばらんである。ちょっとした言葉の表現の違いで、さまざまなグループができて、喧嘩を始める。
然而拨开宏大叙事的画皮,其内部早就四分五裂、支离破碎成了一盘散沙!仅仅因为对某句口号用词的微小分歧,内部便能衍生出形形色色的宗派小团体,转过头来便开始不死不休地血腥火并!
過激派などというのも出てきて、その過激派もいろいろわかれてばらんばらんになる。
紧接着极左激进派夺权上位,即便在所谓的激进派内部,同样迅速分裂割据成无数势同水火的血腥死敌。
皆さんが知っているだろう過激派のひとつに赤軍派があり、連合赤軍なんて言いつつ、仲間内でばらんばらん。結果、あさま山荘から、ハイジャック、外国へ行ってテロ。共闘といえば聞こえはいいが、ちっともいっしょにならず、分裂し続けたのである。
大众最耳熟能详的所谓赤军派,嘴上标榜着崇高的“联合赤军”,结果在浅间山庄里为了纯洁队伍,竟然对昔日朝夕相处的同伴施以惨绝人寰的私刑虐杀清算;随后更是堕落为劫机暴徒、流窜至海外去发动疯狂恐怖袭击……“共斗”二字听起来何等豪迈壮美,然而在残酷的历史现实面前,人类根本做不到并肩同行,唯有永无止境的猜忌、仇杀与无限分裂!
人間は、仲よくするより喧嘩する方が好きな動物らしい。
人类这种生灵,骨子里嗜好同族操戈、自相残杀的暴戾天性,远远超越了他们对和睦相处的渴望!
その共闘が難しいのだから、共存なんてさらに難しいだろう。
连面对共同敌人时的“携手共斗”都荒唐落幕得如此惨烈,试问,毫无利害捆绑的“万物共存”,又怎么可能是一句轻飘飘的口号就能实现的奢望?!
つまり、自己存在への疑問がいきすぎると、自己主張のかたまりに変化してしまうのだ。
归根结底,对“自我存在”的拷问一旦走火入魔滑向偏执,其最终形态必将蜕变成一团极度狂暴的“自我主张怪物”!
バトルとは、それぞれの自己主張のぶつかりが行動になって表れたものである。
所谓“对战(Battle)”——正是各个独立个体之间,其强烈自我主张发生不可调和的剧烈正面碰撞时,在现实行动中所投射出的暴力具象化!
たとえそれが、ゲームだとしても……。
哪怕这套对战被包装成了一款看似人畜无害的电子游戏……
自分は自分である。他の誰でもない。そんな連中が共存を語るのが、アクションアドベンチャー『ルギア爆誕』のつもりだった。
“我就是我,天王老子也休想替代我!”——正是让这样一群全员抱持着极致傲岸自我主张的各方生灵去直面生死浩劫,并最终奇迹般碰撞出共存火花的奇迹,才是我执笔动作冒险大片《洛奇亚爆诞》的真正野心所在!
作为强烈自我主张化身的火箭队——彻底砸碎剧本安全牌的三人组
で、やっと、ロケット団トリオの話になる。
说到这里,终于能够回过头来深谈火箭队三人组的伟大之处了。
彼らは、ロケット団という悪役組に所属しているが、ロケット団以上に、ムサシ、コジロウ、ニャースであることが優先するように僕は設定した。
他们名义上依附于庞大的邪恶犯罪集团火箭队;但在我的原初人设中,在他们身为火箭队队员之前,他们首先且必须永远是“武藏”、“小次郎”与“喵喵”!这一自我身份的认同,享有至高无上的绝对优先级!
コスチュームも、他のロケット団は黒いが、彼らは白い服だ。
在队服颜色上,全组织的杂兵爪牙清一色披着阴森死板的黑袍,唯独他们三人傲然裹着一袭洁白如雪的私服。
彼らの意味不明なきまり文句も実は意味がある。「なんだかんだときかれたら……」のそのあとごちゃごちゃ言っているのは、「普通のロケット団じゃないんだぞ……それ以前に、ムサシであり、コジロウであり、ニャースなんだ」という意味であり、つまり、強烈な自己主張である。
他们那段看似不知所云、长篇大论的登场定场诗,在无厘头背后蕴含着振聋发聩的真正深意:“既然你诚心诚意地发问了……”那一长串对白吼出的潜台词正是:“给老子听好了!我们可不是你们随手捏死的平庸黑衣杂鱼……在身为火箭队之前,我们是独一无二的武藏!高贵的小次郎!以及名扬天下的喵喵!”——这正是近乎狂暴的强烈自我主张!
ところがである。
然而,残酷的现实却无情地泼了冷水。
アニメが始まってみれば、自分達は脇役……主人公達の邪魔をして、結局ドジをしてやっつけられて、「やな感じ〜」で吹っ飛ばされて終わりである。
当电视周播动画正式开播运转之后,他们沦为了彻头彻尾的搞笑配角……成天跳出来给主角使绊子,每一次都被打得鼻青脸肿,最后伴随着一声撕心裂肺的“好讨厌的感觉啊~”被轰飞到九霄云外收场。
脚本家やアニメーターによって、多少の工夫はあるが、所詮、登場してはやっつけられるワンパターンである。
尽管各个分集编剧与原画师们也曾试着加进一些巧妙细节,但终究逃脱不了“出来搞破坏—吃瘪被打飞”这套死板僵化的千篇一律固定套路。
僕は、ムサシ役の声優さんに、「台本の台詞なんか無視して好きにしゃべっていいよ。パターンどおりの主役達と違って、あなた達はオリジナルで自由なんだから……」と番組開始当初に言った。
在动画刚开播时,我曾私下给武藏的声优老师打气:“台本上写的那些干瘪台词你们大可不必理会,完全可以按你们自己的感觉去自由发挥!不同于那些被固定公式锁死的主人公们,你们三人是完全原创、拥有无限自由的灵魂啊……”
けれど、しっかりした脚本会議ででき上がってくる脚本は、タイムボカンシリーズの悪役さながら、みじめー、が売りのワンパターンである。
然而,在极其严密保守的各方编剧研讨会议层层把关下出炉的每一集剧本,却宛如流水线复制粘贴一般,依然紧紧锁死在《时间飞船》式“凄惨挨打反派”这一万年不变的安全牌套路里。
ワンパターンは、脚本作りの上では安全なのである。
对于剧作而言,墨守成规的固定套路确实是最稳妥、最安全的保底打法。
しかし、これじゃあ、声が自由にやろうとしてもやりようがない。
但在这种死气沉沉的模版牢笼里,任凭声优们有多大的本领想要展翅高飞,也根本没有任何施展施展拳脚的空间与土壤。
アニメの制作体制がしっかりしているから、アフレコの時に絵や台詞の秒数もきっちりできていて、アドリブの入れ場所も少ない。
现代电视动画的流水线工业体系实在太过严谨精密了,在后期配音环节,画面帧数与台词对白秒数都被精准卡死到了毫秒级别,能够容纳临场即兴发挥的缝隙微乎其微。
こんなはずではなかった。
事情本绝不该演变成这副模样。
フラストレーションがたまってくる。
沉重浓烈的挫败感与压抑,开始在幕后疯狂淤积膨胀。
シリーズ構成の僕にも、ロケット団トリオの扱いに欲求不満が膨らんでいた。
甚至连贵为系列构成总编剧的我本人,看着火箭队三人组在TV动画里沦为这种刻板工具人,心头的憋屈与饥渴感也早已逼近了爆发的临界点!
そこに、自分が自分らしく自己主張しつつ、それが世界の共存につながるという奇妙なストーリーの映画の登場である。
偏偏就在这个近乎窒息的绝望节点上,《洛奇亚爆诞》这部电影横空出世了——一个讲述“每个人竭尽全力活出极致的自我主张,却不可思议地化为了维系世界万物共存的崇高力量”的奇迹故事!
このストーリー、自己主張の強いやつがいればいるほど面白くなる。
在这个颠覆性的剧本骨架中,登场角色的自我主张越是狂暴强烈,整部戏碰撞出的戏剧火花就越是绚烂夺目!
いるじゃないか、最初から、私達だよ……と、ロケット団トリオ。
放眼全宇宙,还有谁比他们三人更符合这种特质?!“这不正是打一开始就为我们量身打造的舞台嘛!那就是我们啊!”——火箭队三人组在稿纸深处振臂高呼!
こうなりゃ目立つだけ目立ってやる。
既然风云际会,那老子索性在大银幕上抢足全场风头、彻底闪耀个痛快!
かくして、ロケット団トリオ、いいとこどりの『ルギア爆誕』の脚本ができ上がる。
就这样,一部由火箭队三人组将全片高光名场面与灵魂主旨全部豪迈包揽的《洛奇亚爆诞》传奇剧本,浴火诞生了!
僕が書いたというより、ロケット団トリオに僕が書かされたと言ってもいいかもしれない。
与其说是我作为编剧挥毫写就了他们,倒不如说是在那个生死存亡的至暗时刻,是火箭队三人组跨越了虚构与现实的界限,强行夺过我手中的钢笔,逼着我替他们书写下了这曲名垂影史的万物共存之歌!