2009 WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」
[访谈翻译] 首藤刚志动画创作手记 第202回:火箭队才是真正主角(自我存在的悖论、被抹杀的反派尊严与秋叶原无差别事件的社会冷思)
首藤刚志 × 武藏 × 小次郎 × 喵喵 × 超梦 × 洛奇亚 × 林原惠 × 小智 × 皮卡丘
第202回 火箭队才是真正主角
『ルギア爆誕』について長々と書いてきたが、やっと『ルギア爆誕』におけるロケット団トリオの登場である。
关于《洛奇亚爆诞》的前因后果絮絮叨叨写了这么长,终于轮到火箭队三人组在这部电影里的正式登场了。
その前に、くどいが僕自身の自己確認という意味でも繰り返すが――何しろ気がつけば1年近くこのコラムで『ポケモン』の事ばかり書いているので、過去に何を書いたか思い出せないところもある情けない状況になっている――アニメ『ポケモン』映画第1作『ミュウツーの逆襲』の基本テーマは「自己存在」、つまり「自分とは何か?」への自問自答であり、その答えは出ていない。ただ、自分が存在している以上、自分は他にいない自分自身である。自分と同じ存在など他にあり得ない。世界に1人しかいない存在だ。だから、自己存在を大切にしなければならない。その事を『ミュウツーの逆襲』の主人公であるミュウツーがうすうすでも感じる――だった。
在此之前,虽然有些啰嗦,但为了我自己梳理思路也请容我再复述一遍——不知不觉在这个专栏里连续写了一整年《宝可梦》,以至于我自己都有些记不清前面到底写过些什么的狼狈境地——动画电影第一部《超梦的逆袭》的核心基调是“自我存在”,也就是对“我究竟是谁?”的永恒叩问。这部作品并没有给出标准答案。只是:既然自己已经降生于世,自己就是独一无二的自身;这世上绝不可能存在第二个完全相同的我,我是天地间绝无仅有的孤本。因此,必须无条件珍视自己的存在——这正是身为《超梦的逆袭》真正主角的超梦,若隐若现感知到的真谛。
つまり、この世界に存在する自分は、他の存在とは違うという自意識を持つという事であり、その自意識を持つ事によって、自分の存在に価値観を持とうと思う事――結果、自分はこの世界に存在していいのだ、存在すべき存在なのだと自分が感じたいという事、それが、脚本を書いた『ミュウツーの逆襲』における僕のテーマだった気がする。
换句话说,所谓存在于世的“我”,必须觉醒出“我与他者截然不同”的强烈自我意识;唯有借由这股自我意识,才能确立自身存在的价值基准——其终极诉求,就是让自己打心眼里确信:我活在这个世界上是理所应当的,我是一个值得存在于世的神圣生灵。这便是我当年执笔《超梦的逆袭》时寄托的核心母题。
それが、『ミュウツーの逆襲』をご覧になった子供達、大人達に伝わったかどうか、まるで自信はないのだけれど、僕とは違うのだから、『ミュウツーの逆襲』を観た方達がどう感じるかは、人それぞれである。
这番心意究竟有没有传达给当年观看《超梦的逆袭》的孩子与大人们,我心里其实完全没有底气。但正因为观众与我不是同一个人,大家看完之后作何感想,自然千人千面、各得其所。
まして、脚本は作品の土台であり、設計図ではあるが、でき上がった作品は様々な作り手のそれぞれの感じ方を通過して完成されるから、脚本を書いた僕の「書いたつもり」が――ストーリーや台詞は僕の書いたそのままだが――的確に表現されているかは、???なのである。
更何况,剧本虽是作品的基石与蓝图,但最终成片却必须经过无数不同制作人员各自的理解与感性过滤。即便剧情框架与台词完全原汁原味出自我的笔下,但我当年“试图表达的本意”究竟有没有被百分之百精准传达,老实说连我自己也要打上一个大大的问号。
アニメに限らず、この世界にあるどんな創作物も多かれ少なかれ、様々な人の共同作業で完成されるものだから、そこいらは作り手のそれぞれが割り切らなければやっていられないのである。個人作業に見えるエッセイ、詩、小説ですら、人々の前に発表されるまでには、様々な人の手を通過している。
不仅动画如此,世间任何文艺创作多多少少都是众人协力磨合的结晶,身为主创若不能在这一点上豁达放宽心,日子根本没法过下去。哪怕表面上看似完全个人闭门造车的散文、诗歌、小说,在正式出版公诸于世之前,也必然会经过编辑与校对等无数双手的敲打。
で、話を元に戻せば、自己存在を大切にするという事は、ある意味、自己本位で自分勝手に考え、行動するということである。
言归正传。所谓“珍视自我存在”,从某种意义上讲,就是以自我为中心、任性妄为地去思考与践行。
『ルギア爆誕』は、そんな登場人物たちで埋め尽くそうとした。
而《洛奇亚爆诞》,便是我誓要用这群自私任性的人物彻底填满银幕的野心之作。
自己本位で自分勝手な登場人物ばかりで、「共存」などというテーマが描けるのか、バトルと論争だらけの殺伐とした作品になりはしないかという危惧はある。
满屏都是自私自利的刺头,真能描摹出“共存”这种宏大主题吗?难道不会演变成全片充斥着互掐与骂战的肃杀修罗场吗?这种担忧当然合情合理。
確かに自己本位で自分勝手だと、自分と感性の違う存在や、邪魔な存在が出てくる。
诚然,一旦每个人都以自我为中心,势必会撞上与自己感性格格不入乃至碍手碍脚的眼中钉。
いわゆる自分の敵である。それらと戦い、あるいは抹殺する。その自分の行為を正しいとする考えは、おそらく人間がこの世界に生まれてから普通にある、常識的な考え――感性といっていいと思う。
这就是所谓的“敌人”。与敌人死战到底、乃至将其肉体物理抹杀,并将自己的杀戮行为冠以绝对正义之名——这恐怕是人类降生于世以来便根深蒂固的常态本能,亦即普遍的社会常识与野蛮感性。
だから、おおざっぱな言い方だが、いつの世も、もめ事と戦争はつきない。
正因如此,放眼古今中外,人世间的纷争与战火从未有一刻停歇。
これまた、おおざっぱに言って、基本、愛と平和と心の平安を説く宗教だって、同じ宗教の仲間内でありながら、喧嘩が絶えない。
同样粗略地说,即便是那些以博爱、和平与内心安宁为幌子的大宗教,信奉同一教义的教友内部也同样狗咬狗、内讧厮杀不断。
自分本位が是か非かを考える事、感じる事、それを表現する事が、ありとあらゆる創作物の原点かもしれない。
拷问“以自我为中心”究竟是对是错,感受它、并将这种撕裂淋漓尽致地展现出来,或许正是世间所有文艺创作的万物原点。
特に書物や演劇は、ギリシャ悲劇からシェークスピア、ドフトエフスキー、世の東西のほとんどの文学など、僕が大風呂敷な例をあげるまでもなく、それが露骨に表れている気がする。
尤其在戏剧与古典文学中,从古希腊悲剧到莎士比亚,再到陀思妥耶夫斯基与东西方名著,无需我搬弄夸夸其谈的典故,这种挣扎也早已赤裸裸刻进了文字骨髓。
何だか、僕が分かりやすく書こうとすると、大風呂敷でおおボラのように自分でも感じるのが困っちゃううえ、さらに語るのがロケット団トリオの事だから、みなさん、ずっこけるであろう事はほとんど予想できる。
我这人一想把道理写得通俗易懂,往往就会不由自主地把摊子铺得像在吹天大的牛皮,自己都觉得尴尬头疼;更何况接下来我要用这套宏大理论剖析的竟然是搞笑反派火箭队三人组,读者们恐怕当场就要笑得人仰马翻、大跌眼镜了吧。
で、またまた、話を戻すが、そんな自分本位や自分勝手な行為は、本当に自分本位で自分勝手に生きる事の過程で起こることのような気がするのである。
不过话说回来,那些看似任性自私的举动,其实是真正想要任性自私活下去的过程中必然历经的过渡阶段。
自分本位の障害になるものを消していったら、自分と違う存在がいなくなる。
如果你把所有妨碍你自私存在的外物统统消灭抹杀,这世上便再也没有与你迥异的他者存在了。
人がそれぞれ違うものだとしたら、自分と違うものを消してしまえば、自分しか残らない。
既然每个人都是独一无二的独立个体,一旦把所有不同于你的人屠戮殆尽,天地间就只剩下了你自己。
自分存在の確証が、他の存在と違う事だとすると、自分と違うものがなくなってしまうと、自己存在もなくなってしまう。
如果证明“自我存在”的唯一铁证就是“我不同于他者”,那么一旦所有不同于你的存在都烟消云散,你自己的存在本身也就随之彻底湮灭了!
自分と違うものがあるから、自分が他の存在と違う事が分かると思うのである。
正因为有与你全然不同的万物存在,你才能清醒地意识到自己是一个独立的生命。
自分だけしかいない世界だと、自己存在はなく、そこにあるのは、何でも自分の思いどおりになるという全能感か、逆に自分しかいない荒野にたたずんでいるような、自分が無に等しい虚無感に陥ってしまう気がする。
在只有你一人的荒芜宇宙里,自我存在荡然无存,等待着你的要么是一切随心所欲的病态全能狂妄,要么就是孑立于死寂荒野之中、自身等同于虚无的无边绝望。
つまり、自己存在を感じるためには、自分とは違う存在が必要なのである。
也就是说:要想切身体会到自我的存在,就绝对不可缺少与你截然不同的他者!
自己存在を意識するためには、違う存在も認めなければならない。
要想牢牢确立自我的存在,就必须无条件承认并容纳他者的存在。
それを、僕は「共存」と呼びたかったのである。
这一终极状态,便是我心中渴望呼唤的“共存”!
自分と違うものを消しては――消すといっても抹殺する事は難しいから、現実的には無視とか黙過と呼べるかもしれない――自己存在も消えてしまう気がするのだ。
一旦抹杀不同于自己的存在——现实中虽难做到肉体抹杀,但往往体现为傲慢的漠视与无视——你自身的灵魂存在也必将随之一同消亡。
程度はえらく違うと思うが、住まいと食は確保されているものの、インターネットやTVの情報(知らず知らずに本人が取捨選択してしまい、さらに元の情報自体が悪意のあるなしに関わらず操作されている、生身とはいえない情報)だけが、外との窓口になってしまう、いわゆる「ひきこもり」は、もしかしたら軽度の共存不能状態であると思う時がある。
程度虽然不可同日而语,但吃穿不愁却仅凭网络与电视资讯(那些在不知不觉中被自己狭隘筛选、甚至被外界幕后操控的冷冰冰无机质信息)作为与外部世界唯一接口的现代“闭门隐蔽者(宅家茧居族)”,某种意义上正处于一种轻度的“共存不能机能障碍”。
僕自身、今まで全能感を感じたことは一度もないが、幼いころ、虚無感に近いものを感じた時期があった覚えはある。
我这辈子从未体验过什么全能狂妄,但幼年时代却依稀记得自己曾深陷近乎虚无的苦涩冰窟。
自己存在を感じられない虚無感は結構辛いから、敵を見つけて解消しようとする。
感受不到自我存在的虚无感是极其难熬的酷刑,于是人便本能地通过树立一个敌人来宣泄并打破僵局。
仲間や友達を見つけようとは思わない。そんなものは見つかりっこないと思い込んでいる。
他们压根不会奢望去寻找什么伙伴或挚友,因为早已绝望地认定那根本是痴人说梦。
だから敵を見つけて自己存在を見つけようとするのだ。
于是唯有通过寻找假想敌并向其开火,来拼死确认自己还活着的证明。
けれど、明確な敵が見つからないから、そんな状態に自分を追い込んだものとして現代社会のせいにする。それが憎悪に変わる。
然而当找不到具象的敌人时,便将自身凄惨的境遇全盘归咎于现代社会的体制,最终扭曲为滔天的狂暴憎恨。
社会への憎悪を表現するなら、敵はそんな社会を作り出した政治、経済、いわゆる巨悪といわれるもの(僕は巨悪と言えるほど大したものだとは思わないが)を敵にすべきなのが論理的だろう。
按逻辑推演,既然憎恨社会,那么讨伐的目标本该是酿成这副恶果的政治、经济以及所谓的“体制巨恶”(虽说在我看来那帮体制蛀虫也算不上多么了不起的巨恶)。
ところが、そうはならない。
然而现实的悲剧却绝非如此发展。
虚無感から自己存在を求めると、社会悪のもとにまで思いが回らず、身近で社会悪にしたがっていると思える弱きものを憎悪する。
在虚无绝望中索求存在感的人,根本无力将目光投向庞大的体制病灶,反而将枪口对准了身边那些同样在体制下苟延残喘的无辜弱者!
その人が取捨選択した情報の中で現実味のある世界は身近な世界しかなく、その世界の人達は、自分の考える自己存在より弱くなければならない。
在他们狭隘滤镜拼凑的伪现实里,唯有肉眼可及的底层弱者才具真实感;而那些人,必须比自诩凄惨的自己更加孱弱可欺。
その人の自己存在は、他の人の自己存在に負けたくないのである。
因为他们那卑微扭曲的自我,绝不能在他人面前彻底认输。
で、ご近所の誰でもいい弱者に牙をむく。
于是,他们便狞笑着向身旁任何一个素不相识的无辜弱者露出了嗜血的獠牙。
国会議事堂の前や議員会館で暴れるなら、何となく分かるが、それが秋葉原になり――その人の情報の中で、考える社会悪の中心地(?)が秋葉原だったのだろう……おっと、こんな事を書き始めたら、このコラム、大脱線かもしれないので、自己存在と共存とロケット団トリオの話に戻る。
去国会议事堂或议员会馆门口抗议暴动好歹还能让人理解其政治动机;可惨剧却偏偏落在了秋叶原的十字街头——恐怕在凶手封闭偏狭的资讯世界里,秋叶原就是他所认定的全部罪恶中心吧……哎呀,要是顺着这个话题继续深究,专栏恐怕要彻底脱轨失控了,还是赶快拉回到自我存在、万物共存与火箭队三人组的正题上来吧。
ロケット団トリオは、自己意識の強い存在に設定した。
火箭队三人组,从人设地基开始,就被我赋予了极其强烈的自我意识。
ゲームの「ポケモン」には、ロケット団という悪の組織らしきものが存在はするものの、ロケット団トリオのような、目立つ登場人物とニャースはいない。
在原作GB游戏《宝可梦》里,虽说存在着名为“火箭队”的犯罪组织,但根本没有像动画三人组与会说话的喵喵这样棱角分明的具体招牌角色。
ぶっちゃけた話、企画当初はアニメ化にあたり、悪役がいた方がストーリー展開が楽だし、定番アニメとしてパターン化しやすいから考えられた役柄である。
坦白说,最初立项企划时,纯粹是出于“有个反派恶役更容易推进单元剧主线、也更方便套用王道长寿年番经典公式”的功利考量。
ただし、何をやってもダメで、落ちこぼれで、いつもやられっぱなしで、情けなくて、ぼやきっぱなしで、ボスのいいなりになっていて、視聴者の同情で人気の出るような、タイムボカンシリーズの三悪にはしたくなかった。
但我却绝不甘心把他们塑造成那种干啥啥不行、日常吃瘪挨打、满腹牢骚、对首领唯命是从、全凭观众廉价同情博取好感的《时间飞船》式传统三恶丑角!
彼らの歌「ロケット団は永遠に」の歌詞にあるように「悪が正義か? 正義が悪か?」どんでん返しのからくり芝居を狙っているような自己存在意識の強いキャラクターにした。
正如我为他们量身打造的角色歌《火箭队直到永远》里所写的那句“恶即是正义?正义即是恶?”一样,他们是时刻渴望掀翻舞台、上演惊天大反转的狂傲叛逆者,拥有着极度自负的独立人格!
美形であり、主人公たち以上に人間味あふれた存在で、声も演技的に信頼できる方達だった。
他们容貌俊美,比伟光正的主角一行更具活生生的人情味;而幕后的三位声优,更是演技登峰造极、值得托付灵魂的泰斗名家。
僕の知る限りだが、ムサシの声の林原めぐみさんにとっては、アニメにおける初めての敵役だったかもしれない。
据我所知,为武藏献声的林原惠小姐,在当年或许是第一次在长篇动画里正式出演反派恶役。
が、僕にとっては、ムサシの声にミンキーモモの声が欲しかった。
然而于我而言,武藏的喉咙里,必须注入当年《魔法小仙女》(甜甜仙子)的灵魂之音!
前回も書いたが、ロケット団トリオは。アニメ『ポケモン』にとって最重要な役だったのだ。
正如我前文所述:火箭队三人组,乃是整部《宝可梦》动画世界最不可撼动的灵魂底牌!
もともと、僕の書く脚本の悪役は、単なる悪役で終わることはまずない。
追根溯源,凡是在我首藤刚志笔下诞生的恶党,绝无可能仅仅以脸谱化的坏蛋草草收场。
徹底的に格好よく(少なくともキャラクター本人はそう思っている)目立ってやろうと意識している。
他们时时刻刻都在拼命想要展现出绝对的英姿飒爽(至少他们自己打心底里坚信自己帅气至极),狂热渴望抢占舞台C位。
「ポケモン」ゲームとのリンクの都合で、サトシやピカチュウ目線でアニメが描かれ、仕方がなく敵役にされているが、本来は主役のつもりである。
受制于商业游戏宣发绑定的死任务,动画不得不强行借由小智与皮卡丘的视线去展开叙事,逼得他们不得不屈尊充当反派;但他们骨子里,从来都自诩为真正的绝对主角!
『ポケモン』世界を描くには様々な切り口があるが、何かの間違いでサトシとピカチュウ目線になり、悪役になってしまった。
描摹瑰丽宏大的宝可梦世界本有千万条道路,只因阴差阳错的商业选择,才让小智与皮卡丘抢走了聚光灯,将三人组打落为恶役。
「だったらそれでいい。本来の主役は私達である事を、いつかみなさんに知らしめてやる」
“既然如此那又如何?!总有一天,我们要让全天下的观众彻底看清——这片大地的真正主角究竟是谁!”
たくましく、居直ってしまう敵役である。
这是何其顽强倔强、桀骜不驯的反派傲骨!
だから、TVアニメではけっして負けたと言わないで「やなかんじー」(この台詞は声優さん達のアドリブ)で去っていく。
正因如此,在每周的电视动画里,他们被炸飞时从不承认失败,而是以一句“好讨厌的感觉啊~”(声优老师们的即兴神来之笔)潇洒谢幕。
そして、本来は、ロケット団といえば、ポケモンを使い世界制覇を狙う大きな悪の組織らしきものだったのだが、視聴者にとってロケット団=ムサシ・コジロウ・ニャースを意味し、感じるように変えてしまった。
而在广大观众心目中,原本指代庞大跨国犯罪集团的“火箭队”三个字,硬生生被他们三人的人格魅力所彻底重塑——在观众眼里,“火箭队”就等于武藏、小次郎与喵喵!
『ポケモン』世界を描くには、サトシたち主役より、ロケット団トリオの日常を描いた方が分かる――と、シリーズ構成の僕が言いたくてしょうがないキャラクターたちだった。
身为初代总编剧的我,无数次甚至想要拍桌直言:要想真正讲透宝可梦世界的众生百态,比起去拍小智一行,不如去拍火箭队三人组的酸甜苦辣日常来得更为真切深刻!
しかしである。
然而,现实却是残酷的。
ロケット団トリオメインのエピソードがなかなか出てこない。
以火箭队三人组为绝对主线舞台的集数迟迟难以推出。
しょっちゅう、ドジで間抜けなところばかりが出てくる。
荧屏上充斥的反倒是他们笨手笨脚、滑稽搞笑的吃瘪段落。
裏を話せば、いろいろ屈折したロケット団トリオを描くより、ドジで間抜けな描き方をした方が、脚本家にとっては書きやすいし、ストーリーもパターンに逃げ込みやすいからである。
若揭开幕后遮羞布:比起去细腻雕琢三人组那复杂深邃的性格褶皱与宿命悲欢,把他们直接降格为滑稽蠢蛋对于其他流水线编剧而言要省力得多,剧情也能轻松套进安全俗套里偷懒。
で、シリーズ構成の僕としてもロケット団トリオの描き方については、欲求不満がつのっていった。
身为系列构成的我,看着自己寄托了无限心血的三人组被如此格式化消耗,内心的憋屈与焦躁与日俱增。
ただ、サトシとピカチュウ目線のアニメとして観れば、できてくる脚本に破綻は目立たない。
不过平心而论,若是仅站在小智与皮卡丘的合家欢视角来看,交上来的那些剧本倒也挑不出什么致命破绽。
だから、なおさらロケット団トリオは欲求不満である。
可如此一来,被压抑的三人组更是憋了一肚子的无名业火!
苦節1年、映画化が決まり、いよいよ出番と思ったら、ミュウツーに主役をもっていかれ、ラストシーンで「いいかんじー」と叫んで、かたちとしてはトリをとったものの、主役ではない。
苦熬整整一年终于迎来了首部剧场版大银幕,三人组摩拳擦掌以为终于能大展身手,结果整个场子却被超梦完全夺走;即便在片尾以那句“感觉好极了~”抢占了终极定格,但终究未能坐上绝对主角的宝座。
もはや、敵役のやられキャラクターで、甘んじていられる限界はとっくに過ぎた。
继续在反派吃瘪工具人的泥潭里委曲求全,他们的忍耐早已彻底突破了极限!
「最初と話がちがうじゃないか」と、ロケット団トリオ。
“当初立项时不是这么跟我们保证的吧?!”——三人组仿佛在我耳畔拍案咆哮。
僕も痛くそれを感じていた。
而我心中,同样如针扎般隐隐作痛。
そして、2作目の映画『ルギア爆誕』。
紧接着,第二部大电影《洛奇亚爆诞》呼啸而至。
映画のテーマの「自己存在」も「共存」も 実はどうでもいい。
什么劳什子“自我存在”、什么崇高伟大的“万物共存”,老实说统统给我靠边站!
ロケット団トリオの目立つ映画を作れ!
这一回,无论如何也要做一部让火箭队三人组出尽风头的大电影!
僕は、自分の作ったキャラクター達から、すさまじいプレッシャーをかけられた(断っておくが、プレッシャーをかけてきたのは、声優さんではなく、アニメのキャラクター達である。もっとも、ある年、ロケット団トリオの声優さんの1人から送られてきた年賀状に、「ロケット団トリオを、もっと面白くしてください」と添え書きが書かれてあったこともあったが)。
我被自己亲手缔造的角色们施加了排山倒海般的恐怖威压(请容我声明:逼宫施压的不是声优老师,而是从胶片中走出来的角色灵魂本身!虽说有一年元旦,某位声优老师确实在寄给我的贺年卡上赫然手书了一句附言:“首藤老师,请把火箭队三人组写得更有趣一点吧!”)。
で、「共存」などと言うテーマはそれはそれとして、ロケット団が目立ちやすい舞台を作ろうとしてかなり懸命になった。
于是,我一边在台面上维持着“共存”的宏大立意,暗地里却绞尽脑汁、不顾一切地为火箭队三人组搭建能让他们大放异彩的华丽舞台。
しかし、ロケット団トリオの登場時間が多いと、『ルギア爆誕』はロケット団トリオが主役の映画ではない、と脚本会議ではねられる危険が大である。
然而若给三人组分配太多出镜时间,在审查严苛的企划脚本会议上必将被高层以“这根本不是火箭队外传”为由无情枪毙!
登場場面が少なくても、ロケット団が主役に見えてしまう映画――「共存」の意味と同時に、『ルギア爆誕』の脚本はそれを目指してもいた。
哪怕出场分镜寥寥无几,也必须让全场观众认定火箭队才是全片无冕之王!——这与“共存”的深层母题一道,成了我执笔《洛奇亚爆诞》的最狂妄野心。
そして、極めて強引にロケット団トリオは目立ってしまった。
最终在成片中,火箭队三人组以一种近乎霸道蛮横的狂暴姿态,彻底主宰了全场的焦点!
彼らの目立ちっぷりには、それなりの建前としての彼らの台詞があるが、それは、あくまで建前であって本音ではない。
为了这一出尽风头的壮举,剧本为他们安排了一套冠冕堂皇的台词,但那终究只是骗过世俗的幌子,绝非他们内心的真正狂呼。
だらだらのびのびのコラムで申し訳ないが、『ルギア爆誕』のロケット団トリオの本音については、行数の都合で次回に回さざるを得なくなった。
连载一再拖沓延宕实在抱歉,关于三人组在《洛奇亚爆诞》里的真正心声,受篇幅所限不得不推迟至下讲细说了。
ロケット団トリオに免じてお許しください。
还请看在火箭队三人组的面子上,海涵宽恕我一回吧!
それにしても、ロケット団トリオはアニメ版『ポケモン』において大きな存在だと思う。
但无论如何,火箭队三人组在动画版《宝可梦》之中,终究是一座不可逾越的巍峨丰碑。
つづく
(待续)
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
●昨日的我(比起近况汇报不如说是谁都能当的编剧)
先日――といっても文化の日だから、ずいぶん前だが、仕事場から見える中学校が60周年を迎えた。
前些日子——虽说是文化日假期、已经过了不少时日——从我工作室窗前能眺望到的那所初级中学,迎来了建校整整60周年的校庆。
松涛中学校という名で、僕や僕の妹2人が通った公立中学である。
那所学校名叫松涛中学,正是当年我和我的两个亲妹妹曾就读过的涩谷公立母校。
この中学校を高校に見立てて小説を書いたこともあるし、渋谷を舞台にしたアニメシリーズ『ようこそようこ』を書けたのも、この中学校に通っていたおかげだと言えないこともない。
我曾以这所中学为蓝本改写成高中背景发表过小说;而当年能够执笔以涩谷为舞台的长篇动画《欢欢仙子》(ようこそようこ),在很大程度上也是拜当年在这所中学度过的青春岁月所赐。
もっとも、『ようこそようこ』の渋谷は、20年近く前の昔の事になってしまった。
只不过,《欢欢仙子》里展现的涩谷街景,转眼已是近二十年前的泛黄记忆了。
そのわりには、変貌した建物は多いものの、街に集まる人々のタイプが、あまり変わっていないように思えるのが不思議である。
尽管地标建筑早已沧海桑田翻新无数,但聚集在这片街区的年轻人群体的神韵类型,却奇迹般地未曾发生本质改变,这着实耐人寻味。
何でもありのくせに、表面的には不健全さがないのだ。
这里包罗万象、百无禁忌,但在表面上却奇异地不显露出半点阴暗病态的晦气。
ずいぶん変わってしまった新宿と違い、一度渋谷を回遊(回遊散歩コースがある)したならお分かりの方も多いだろうが、不思議な街・渋谷の不思議さは健在な気がする。
与早已面目全非的新宿相比,只要你曾沿着涩谷的经典漫步路线徜徉过一遭便会明白:这座不可思议的奇幻之城,其骨子里的独特魔力至今依旧生生不息。
ところで松涛中学校だが、僕が通っていた頃は、1学年に400人もいたが、渋谷の真ん中の住宅街にあり、渋谷の都市化と少子化のせいもあり、数年前は1学年数人(ひと桁)にまで落ち込み、存続が危ぶまれた。
说回松涛中学。当年我就读时,一个年级足足有400名学生;然而地处涩谷正中央的黄金住宅区,伴随着极度的都市空心化与少子化冲击,数年前整个年级的新生居然骤降到了区区个位数,险些面临被强行废校的绝境!
渋谷の一等地――かつて1000人以上も収容したみっつの校舎に、ひと桁の入学者である。
在涩谷寸土寸金的核心地段——曾经容纳过千余名学子喧闹的三栋宏伟校舍里,入学的却只有寥寥几人。
もはや、その生徒数では学年ともいえず、クラスともいえず、ほとんどグループと呼んでいい生徒数である。
这点寒酸的人数,别说组成一个年级甚至一个班级了,充其量只能被称作一个课外互助小组罢了。
そこで、主要科目以外は英語で教えるという公立中学としては珍しい方針を打ち出し、それが、評判を呼び、今では全生徒数が200を超えたという。めでたい事である。
危急关头,校方破釜沉舟打出了“除主科外全英文浸润式教学”这一公立学校绝无仅有的前卫方针;未料这一招奇迹般引发热烈反响,如今全校学生总数已重新突破了200人大关,着实是一桩可喜可贺的盛事。
僕にも中学生の娘がいるが、ちょっとした都合で、別の女子中学校に通っている。
我也有一位正在念初中的女儿,因种种缘故目前就读于另一所女子中学。
で、今の公立中学校の男女共学の生徒達がどんな様子なのか――いつも渋谷の街へ行く道ですれ違ってはいるのだが、見知らぬおじさんが声をかけたら犯罪者と思われかねないので――60周年記念の式を拝見させていただいた。
为了亲眼看看当代公立男女混校的初中生们究竟是何种风貌——平日里在涩谷街头虽然常有擦肩而过,但陌生大叔若贸然搭讪恐当场被当作拐卖可疑分子扭送警局——于是我借着建校60周年的良机,前去观摩了典礼。
式は、授業の成果を見せるためか、司会も生徒たちの挨拶も、余興(?)の生徒達の劇も、討論会も、みんな英語である。司会者の言葉には、日本語訳をつけていたが――あ、校歌はさすがに日本語で歌っていた。
整个庆典为了展示教学成果,从主持串场到学生致辞,乃至课外短剧与辩论会,清一色全用流利的英文进行。主持人的串词虽配有日文翻译——啊,唯独校歌好歹还是用日语唱出来的。
そんな方針の中学校なのに、来賓のお偉方たちの挨拶や祝辞には、まったく英語がない。
然而在这般全盘西化的前卫中学里,台上坐着的一众达官贵要来宾们的贺词致辞,却连半句英语都没有。
そして、僕が中学生のころ聞いた内容と同じ事を生徒たちに喋っていた。
更绝的是,他们口中滔滔不绝的大道理,竟然和我半个世纪前上初中时听到的训话一模一样!
平成(21世紀)の中学生に、日本語で昭和の挨拶内容をしている来賓の方達の姿は、いささか異様であった。
置身21世纪平平成时代的先锋少年面前,这群老派官员操着日文高谈阔论着昭和时代的古旧说教,场面显得何其荒诞滑稽。
後日、校長先生にお会いしたが、今の生徒達にも『ポケモン』は人気なのだそうだ。
数日后与校长先生交流时,校长告诉我:《宝可梦》在如今的学生群体里依然大受欢迎。
しかし、僕の娘の中学では、『ポケモン』は、ほとんど話題に出ないようだ。
但在我女儿就读的那所女子中学里,《宝可梦》却几乎从不见有人提及。
それに、松涛中学校の校長先生の語る『ポケモン』は、僕が関わっていた頃の『ポケモン』とは、ちょっとニュアンスが違う。
不仅如此,从松涛中学校长口中描摹出的那个《宝可梦》,与当年由我统领主笔的《宝可梦》,在精神气质上已然有了微妙的鸿沟。
どこが違うかは言っても仕方のないことのような気がする。
究竟哪里变了味,细究起来似乎也已毫无意义。
『ポケモン』アニメが始まったのが10数年前だから、いくらワンパターンのアニメといっても、時代とともに変わってきているのは当然だろう。
动画开播毕竟已过去十数载春秋,哪怕再怎么坚守公式套路,随着时代洪流的冲刷发生蜕变也是理所当然的自然规律。
『ポケモン』に限らず、日本における脚本というものの質が変わってきているのは、TVドラマや映画を見ていると、僕もよく感じることである。
不仅《宝可梦》,整个日本影视剧作的骨髓品质正在发生不可逆的剧变,这在我审视近年来的日剧与电影时感受尤为深刻。
このコラム、ずるずると4年も続いている。
不知不觉这个专栏竟然浑浑噩噩拖了整整四年。
本気で脚本家を目指している方なら、プロの脚本家になっていてもおかしくない年月が経っている。
若是有心怀远大志向的青年从第一讲开始研读,四年的光阴已足够让他成长为独当一面的职业编剧了。
プロという意味が、どういう意味かは色々意見が分かれるだろうが、もともとプロ意識のない変な脚本を書いてきた僕だから、あまり気にはならないのだが、21世紀に昭和(それも戦後日本)の脚本作法が異様な事は感覚的に分かる。
关于“职业”的定义世人众说纷纭,对于我这个一生都在写着不合时宜怪诞剧本的编剧而言本无所谓;但我能敏锐直觉到:在21世纪的今天,若还抱残守缺硬套昭和战后日本的编剧老路,无疑是极其怪诞违和的。
もちろん時代を超えて普遍的なものもあるだろう。
固然,艺术里必定存在着超越时空的永恒普世光芒。
でも、変わったものは変わったのだ。
但变迁了的东西,终究是无可挽回地变迁了。
脚本についてのこのコラム、平成(21世紀)の中学生に、昭和の挨拶内容をしている松涛中学校の来賓の方々のような語りにはしたくない。
探讨编剧之道的这个专栏,我绝不想让它沦为松涛中学校庆上那些面对21世纪新人类却大谈昭和陈腐教条的老迈来宾嘴脸。
しかし、僕は昭和生まれだ。
然而无可辩驳的是,我首藤刚志是一个彻彻底底的昭和生人。
若いころの僕は、爺さんの説教など聞く耳を持たなかった。
年轻时代的我也曾叛逆狂放,对行将就木的老头子们的大肆说教连半个耳朵都懒得施舍。
でも、今思えば、結構、参考になることを言ってくれていた気もする。
可如今步入晚年回望,那些老家伙们当年嘴碎的训诫里,其实暗藏着许多受用一生的真知灼见。
そんなつもりで、このコラムを読んでいただけるとありがたいのだが。
倘若大家能怀揣着这般宽容体谅的心境来阅读这个专栏,我便感激涕零了。
それに、1学年400人もいた世代が、ここ数年でみんな暇になる。
况且,当年一个年级多达400人的婴儿潮一代同龄人,这几年也陆陆续续退休赋闲、迎来了空虚的闲暇时光。
この世代、マンガとアニメに抵抗がない。「あしたのジョー」が青春だったりする。
我们这一代人对漫画与动画毫无心理抵触,我们的热血青春正是由《明日之丈》浇灌铸就的。
白土三平の原作漫画を読んでいた人が、今年映画化された「カムイ外伝」を見たら、あまりのガキっぽさに怒り心頭で席を立つだろう。
当年读着白土三平硬核原著漫画长大的那一辈人,若是跑去影院看今年新翻拍的真人电影版《卡姆伊外传》,恐怕当场就会因为其幼稚浮夸而气得破口大骂、愤而离席吧。
アニメが、少子化してどんどん少なくなる子供や若い人を相手にするより、長寿化して小金をもっている、じいさんばあさんを相手にした方が商売になるような時代が、すぐそこまで来ている気がする。
比起把赌注押在因少子化而日益凋零的幼童与年轻人身上,去讨好这群口袋里揣着养老闲钱、寿命悠长的高龄银发族老爷子老太太,恐怕反倒是更为暴利的时代商机——这种未来已经近在咫尺了!
この世代、今の若い(40代以前)の人より、そうとう理屈っぽいです。
而这帮老家伙,骨子里可比当今40岁以下的年轻人要认死理、较真且讲求严密逻辑得多!
で、このコラム、居直って説教くさくなるかもしれないが、そこのところよろしくお願いする。
所以这个专栏日后若是冷不丁泛起一股顽固的说教味,还请大家多多包涵担待。
テレビのニュースで見たのだが、40代、50代が、ガンダムの豪華超合金モデルの購買層として対象にされているらしいが、そのちょっと上の世代は、そんな虚構のモデルは買わないと思う。
在电视新闻上看到,如今的高端超合金高达模型正在把40到50岁的中年人作为核心收割对象;但在稍年长一点的老一辈眼里,是绝不可能掏钱买这种塑料虚构模型的。
アポロ宇宙船の豪華モデルは買うかもしれないし、財産つぎこんで、実際に行われる数分間の宇宙飛行は体験したいと思うかもしれないが。
他们或许会一掷千金购买阿波罗登月飞船的精工模型,甚至甘愿倾家荡产去买一张体验数分钟真实太空漫游的商业航天机票。
そんなあたりが、ちょっと違うんだよなあ。
两代人骨子里的精神追求,终究是大不相同的啊。
つづく
(待续)
■第203回へ続く
■待续至第203回
(09.11.18)
(2009.11.18)