译文 阅读设置

2009 WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」

[访谈翻译] 首藤刚志动画创作手记 第177回:可以否定《宝可梦》的对战吗?(胜负与自我存在的断裂、无风险代理战争批判与小田原海边的孤绝破局)

WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」 2009.03.18 约 15 分钟 原文 ↗

Contents 本篇 6 章
  1. 第177回 可以否定《宝可梦》的对战吗?
  2. 胜负绝无法证明存在:战斗根本给不出“我究竟为何物”的终极解答
  3. 赢家与输家的虚妄名利:将世俗排位强加于精神创作的深刻违和
  4. 可随意重置的无痛代理战争:现代游戏的深层心理学与世故处世术
  5. 觉醒自我意志的棋子叛乱:高高在上的训练家们被粉碎的战栗
  6. 否定宝可梦对战的绝对禁忌:在小田原大海前枯坐沉思的破局之日
01

第177回 可以否定《宝可梦》的对战吗?

02

胜负绝无法证明存在:战斗根本给不出“我究竟为何物”的终极解答

『ポケモン』アニメ映画『ミュウツーの逆襲』のクライマックスは、言うまでもなく「自分とは何か」という自己存在への問いかけに対する本物とコピーの戦いである。

毋庸赘述,宝可梦动画电影首作《超梦的逆袭》的高潮戏码,正是围绕着“我究竟为何物”这一终极自我拷问,在本物与克隆体之间展开的殊死之战。

本物であろうと、コピーであろうと、それぞれ個々にこの世に独自に存在しているいるには違いない。

不论是身为原型的本物,还是人工培育的克隆体,彼此各自独立存在于这世间,这一点无可辩驳。

他に自分と同じ存在がいるということは、「自分とは何か」という個々の持つ自己存在への問いかけを意味のないものにしてしまう。

然而,倘若这世上存在着与自己一模一样的另一个存在,那么每个人内心深处对“我究竟为何物”的个体追寻,便将在刹那间被剥夺全部意义、沦为虚无。

自分と同じものがいないから、「自分とは何か」という自己存在への問いかけと悩みがあり、逆に自己存在への希望も存在する。

正因为这世上再无第二副相同的面孔,我们才会对“自我存在”产生痛苦的困惑与追问,反过来说,对自我独特性的期许与希望亦由此而生。

もともと、自分という存在は、自分自身が望んでこの世にあるわけではない。もちろん、たとえば自分の親など、他者から望まれてこの世に生れて存在しているのかもしれないが、自分が望んでこの世に生まれてきたわけではない。

归根结底,我们自身的降生与存在,从来不是出于我们自己的意志。固然,或许是出于父母等他人的期盼,我们才被带到了这个世界,但没有谁是在诞生前自主选择要降临人世的。

自分がこの世に存在している事に、自分の選択肢はなく、生き物は生まれてきてしまった。

对于“我存在于这个世界”这一既成事实,生灵从来没有自主选择的权利,我们只是被动地来到了这个世界。

しかし、自分がこの世に存在している事実は変えようがない。

然而,我们确凿存在于此的事实,却无论如何也无法改变。

だから、物心つけば、この世に存在する「自分は何か」という自分の存在への問いかけは、大なり小なり誰もが抱く気持ちだろう。

正因如此,凡是心智开化的生灵,在内心深处大抵都曾或多或少萌生过对自身立足点的根本拷问:“在这茫茫世间,我究竟为何而存在?”

コピーにとっては、自己が他者と同じ存在であることは耐えられないことであり、本物にとっても、自分と同じものが作られることは許せない。

对于克隆体而言,自己沦为与他人完全同质的镜像存在,是灵魂无法承受之重;而对于本物来说,世上竟被凭空制造出与自己一模一样的冒牌货,同样是绝对无法容忍的亵渎。

自分と同じ互いの存在を認める事は、独自であるはずの自己存在の否定になってしまう。

承认对方与自己对等平行的存在,无异于亲手扼杀自己本该独一无二的生命价值。

自己と同じものがあってはならない。

世上绝不容许存在另一个自己!

同じものとの違いを見つけるには、同じものだからそこに存在するはずもない互いの優劣で納得するしかない。

为了在这几乎毫无二致的躯壳中撕扯出区别,双方唯有诉诸原本根本不存在的所谓“优劣高下”,以此寻求心理上的自圆其说。

コピーの側には、本物そっくりに生み出されたというコンプレックスがある。だから、本物には負けられない。

克隆体心底埋藏着作为仿制品被人工造出的深重自卑(Complex),因此无论如何也绝不能输给本物。

本物には、自分がオリジナルだと言う自負がある。だから、コピーに負けるわけにはいかない。

本物心底则秉持着唯我方为正统始祖的高傲自尊,因此更绝不能向区区克隆体低头。

だから、自己存在を賭けた戦いが始まる。

于是,一场赌上各自自我存在唯一性的惨烈死斗就此轰然爆发。

バトルゲームが原案の『ポケモン』アニメでは、それがポケモンバトルで表現される。

在以战斗游戏为蓝本的《宝可梦》动画中,这自然被具象化为宝可梦之间的对战。

だが、そんなバトルに意味があるのだろうか?

然而,这样的战斗,当真具有丝毫意义吗?

バトルに勝とうが負けようが、自分は存在しているのである。

无论对战打赢还是落败,你自己依然结结实实地存在于那里。

バトルの勝敗で「自己存在」の事実は消えはしない。

战斗的一胜一负,根本无法抹杀“自我存在”的既成事实。

「自己存在」の問いかけにとって、バトルの勝敗は表向きの評価でしかない。

面对“我究竟为何物”的灵魂叩问,胜败输赢不过是浮于表面、由外人强加的一纸虚妄评价。

バトルの勝敗で、「自分は何か?」の答えは出ない。

从战斗的胜负结果中,永远也求不出“我到底是谁”的终极解答。

つまり、自己存在への問いかけにバトルはあまり意味がない。

换言之,战斗对于解答自我存在的意义,根本毫无用处。

人には様々なその人なりの生き方があるが、それは、この世におけるその人のあり方であって、戦いではない。

人人生而拥有千差万别的活法,那是每个人在这个世界上的立足姿态,而绝非必须拼个你死我活的战争。

人は、戦うために生まれてきたわけではないと思うのだ。

我认为,人绝非为了厮杀争斗才来到这个世界上的。

「人生は戦いだ」という台詞もあるが、ごもっともと思う反面、この感覚は好きになれない。

世人常有言曰“人生即战斗”,这话固然自成一番道理,但我个人向来对这种价值观敬而远之。

「人生が戦い」なんて考えると生きるのに疲れるし、「人生はそれなりに楽しい」と思う方が生きる気力が出ると思うのが僕である。

整日琢磨着“人生就是一场恶战”,活得未免太过沉重疲惫;倒不如觉得“人生自有其趣味安然”,更能激发人活下去的充沛元气,这便是我首藤的人生态度。

03

赢家与输家的虚妄名利:将世俗排位强加于精神创作的深刻违和

バトルゲームは、色々な工夫はなされているものの、最終的にはバトルゲームに勝つことが最終目的である。

各种战斗游戏尽管玩法机巧花样百出,但其最终目的,终究逃不脱在对战中斩获胜利。

「ポケモン」というゲームは、何百種もいるポケモンを収集するという要素、珍しいポケモンを見つけるという要素、ポケモンを戦わせることによってより強く育てる要素、手に入りにくいポケモンを他のプレイヤーと交換する要素など、様々な楽しみ方ができるよくできたゲームだとは思うが、結局、様々なバトルに勝ってポケモンマスターという頂点を目指すバトルゲームである本質は変わりない。

《宝可梦》作为一款游戏,既有收集数百种宝可梦的乐趣,有寻觅稀有精灵的惊喜,有通过战斗培育强力战力的养成成就,亦有将稀有精灵与其他玩家联机交换的社交乐趣,其设计之精妙固然令人叹服;然而其核心骨髓,终究是一款通过在各色对战中拔得头筹、以问鼎“宝可梦大师”这一至高王座为终极目标的格斗对决游戏。

別にゲームに限らず、人間はどんなことでも負ける事より勝ちを望むのが本能だろうとは思う。

抛开电子游戏不谈,无论置身何种境地,比起沦为败者,人类渴望跻身赢家本就是刻在基因里的天性本能。

人生において、ゲームに限らず、スポーツ、金銭問題、社会的地位、名誉、功績、戦争、何にしろ負けをよしとする人などほとんどいない。

在人生道路上,不仅限于游戏,竞技体育、金钱财富、社会地位、声誉荣耀、功业战功,环顾四野,几乎从没有人甘心安于惨败。

僕も、どんなことにしろ、負けるより勝つほうが気持ちが悪くない。

我自己亦概莫能外,在任何事情上,能赢自然比输掉要舒心痛快得多。

ずいぶん昔から勝ち組、負け組などという言葉があるが、他人から自分を負け組とは言われたくない。

很早以前社会上就流行所谓的“人生赢家(勝ち組)”与“人生输家(負け組)”,但我绝不希望被别人贴上输家的标签。

ただし余談だが、昔『ポケモン』アニメを書いているある脚本家から「僕たち、脚本家の勝ち組ですね」と言われたのはさすがにびっくりしたが……。

顺带说句题外话,当年参与《宝可梦》动画编写的某位同行编剧,曾得意洋洋地对我说:“首藤老师,我们如今也算得上是编剧圈里的‘人生赢家组’了吧!”——当时这番话着实让我吃了一大惊。

要するに『ポケモン』アニメがヒットして、二次著作権収入が普通の脚本家以上であることを意味しているのだろうが、脚本を含め、いわゆる人の作る創作物に、出来のよしあしはあっても、勝ち負けで評価するのは僕にはとても違和感がある。

他话里的意思,无非是因为《宝可梦》动画在全球大爆,随之而来的衍生著作权版税分成远非寻常清贫编剧所能企及;然而在我看来,包括剧本在内,凡是人类出于精神寄托所诞生的创作心血,其品质固然有高下之别,但若将其放在输赢赢家的世俗天平上去衡量,我心底只觉得极度违和与荒诞。

創作作品を、金銭的儲けで優劣をつけるのは、何となく気持ちが悪いのである。

拿作品能赚多少真金白银来给艺术创作分出优劣胜负,怎么想都透着一股令人作呕的恶心。

スポーツや、将棋や囲碁などのゲーム、人の票を集める選挙、極端な言い方だが喧嘩や戦争など、露骨に勝敗が決まるものに勝ち負け評価をするのはなんとなく分かるが、創作物、科学的研究などで○○賞をとったから勝ったという人がたまにいるが、どうも僕にはそんな感覚にはついていけない。

对于体育竞技、将棋围棋、拉票选举,乃至更为极端的打架斗殴与国家战争,胜负高下泾渭分明,拿成败论英雄尚可理解;但对于文学艺术创作或科学理论探索,偶尔有人跳出来宣称“因为拿了某某大奖所以我赢了”,这种价值观我无论如何也无法苟同。

毎年、いろいろな創作物にベストテンが発表されるが、それは、ある一部分の人たちの作品評価の平均であって……そんなものに順位をつけるのも僕には違和感がある……作品の出来と勝ち負けとは異質のものだと思うのだ。

每年各大机构评选出的各类创作排行榜前十名,说到底也不过是一小撮评审人员的主观平均分而已……对这种东西煞有介事地排座次分高低,在我看来极其别扭荒谬——作品本身的艺术成色,与功利层面的输赢成败,根本就是风马牛不相及的两码事。

04

可随意重置的无痛代理战争:现代游戏的深层心理学与世故处世术

話をもとに戻すが、バトルに勝つ事を最終目的にする多くのゲームに、苦情を言っている訳ではない。

回过头来说,我并非对那些以克敌制胜为最终目的的游戏抱有微词。

何かに勝ちたいという感覚は、人間の本能のひとつだし、その本能を上手にくすぐるゲームなら優れているゲーム作品だと思う。

渴望在竞争中取胜乃是人类的本能之一,能够巧妙撩拨抚慰这种本能的游戏,毫无疑问算得上是极为出色的优秀作品。

だが、優れたゲームだとしても、近年のゲームは、僕のようなゲームに対して古い感覚の人間にはどうもピンとこない。

然而,即便品质卓越,近些年层出不穷的新派游戏,对于我这种持有老派游戏观念的人而言,心头总有一处始终无法契合。

それは、負けてもリセットが利く事、やり直しが楽にできる事である。

那便是:即便战败了也能够随意重置(Reset),推倒重来的代价极其廉价轻巧。

つまり、負けがプレーヤーのダメージになかなかならない。

换言之,失败对于荧幕前的玩家本身,几乎构不成任何实质性的切肤之痛。

気分的にちょっと悔しいだけである。

充其量不过是心理上泛起一丝不痛不痒的懊恼罢了。

基本的に、昔のゲームは囲碁、将棋、麻雀などなど、負けたからといってやり直しはできない。

从根本上讲,昔日的传统博弈游戏如围棋、将棋、麻将等,输了就是输了,绝不可能奢求悔棋重来。

負けてしつこくやりなおしを要求する人は人間性を疑われ嫌われる傾向があった。

那些输了便死皮赖脸硬求重新再来一局的人,往往会被旁人质疑人品、横遭鄙弃。

違法にしろ、こっそり勝敗にお金を賭けたりする場合が多いから、負けたプレーヤーのダメージも大きい。

更何况,哪怕属于灰色地带,这类博弈往往私下伴随着金钱赌注,输家所承受的现实沉重打击是极其惨烈的。

子供のゲーム、メンコですら、負けるとメンコを取られたりする。

哪怕是小孩子的拍洋画游戏,输掉的一方手中的洋画片就会被当场全部没收。

昔のゲームには、多かれ少なかれプレーヤーのリスクがかかっていたのである。

往昔的游戏,多多少少都会让参与者亲自押上某种切身承受的风险(Risk)。

言い方に語弊があるが、国家のリスクのかかったゲーム、戦争には金がかかるし、なにより大量の死者がでる。もっとも、なんだかんだと理屈をつけて、所詮は金もうけのための戦争がほとんどだが……。

说句可能引起争议的话,押上整个国家命运的最高赌局——战争,耗资何其巨大,更必然伴随着成千上万生命的灰飞烟灭。尽管政客总能巧立各种冠冕堂皇的名目,但追根究底,绝大多数战争不过是为了争夺金钱与利益而设的掠夺赌局……

だが、最近のバトルゲームは、負ければリセットでき、プレーヤーのリスクが少ない。

然而,近年来的战斗游戏,一旦败北只需按下按键即可轻松重置,玩家自身承担的风险微乎其微。

その分、ゲーム表現は過激になり、暴力、殺戮が横行する。

正因肉体毫无风险,游戏在视听表现上便愈发肆无忌惮地滑向极端过激,暴力、屠戮与血腥横行肆虐。

さらに、萌え系などという新種の性的要素を加えたものもある。

更有甚者,还硬性掺杂了所谓“萌系”等新奇的性吸引力佐料。

それが現実で起きてもしも失敗したら、簡単にリセットできないことばかりだ。

这些狂暴若搬到现实中发生并遭遇惨败,皆是绝不可能轻易复原重来的灾难。

しかし、何をしようと、それがプレーヤーにリスクのないゲームだから許されている傾向がある。

然而正因为无论在虚拟世界中做了什么,对坐在沙发上的玩家而言都是零风险的安全游戏,所以这一切才被现代社会广泛宽容和默许。

『ポケモン』はその点の表現の配慮がなされていて、バトルをしてもキャラクターは死にはいたらないし、キャラクターが傷ついても回復できるようにできている。

就这层意义而言,《宝可梦》在表现尺度上可谓煞费苦心——即便经历激烈对战,登场的角色绝不会面临真正死亡,受创过甚亦能通过宝可梦中心迅速治愈康复。

『ポケモン』キャラクターも愛嬌のあるものが多い。

不仅如此,绝大多数宝可梦的造型设计都憨态可掬、亲和力十足。

ピカチュウなど、その中のメインスターであることは言うまでもない。

皮卡丘更是其中的当家璀璨明星,自不必多言。

ゲームのバトルルールも色々工夫されている。

游戏内置的战斗规则与属性克制亦经过了千锤百炼的精妙打磨。

ゲームに詳しい人達に言わせれば、とてもよくできたゲームとして評価が高かった。

在精通游戏机制的行家眼中,它被公认为极其出类拔萃的殿堂级神作,享有极高赞誉。

それでも、バトルゲームである本質は変わらない。

然而,这一切依然无法改变其本质上是一款格斗对决游戏的真相。

戦うのはゲームの中のキャラクターであり、プレーヤーにリスクはほとんどない。

在屏幕里流血厮杀的是虚拟的数字角色,坐在屏幕外的玩家自身几乎无需承受任何代价。

プレーヤーはバトルに使うキャラクターを考え、戦う技を選び、そこには色々工夫やテクニックが必要だが、あくまで、戦うのはゲームのキャラクターであり、そのバトルに勝つことによって、プレーヤーのキャリア――ゲーム上での出世――が上がっていく。

玩家精研阵容搭配,钻研技能机制,其间确实凝聚着高度的心智与操作技巧;但归根结底,冲锋陷阵流血流汗的唯有棋盘上的角色,而凭借着一场场的击溃对手,玩家自身的履历——也就是游戏世界里的升官晋级——水涨船高步步高升。

そして、失敗すればリセットできる。

万一失手,按一下重置便能从头来过。

つまりプレーヤーのリスクが少ない代理戦争ゲームなのである。

换言之,这是一场让玩家自身免除一切流血代价的“无风险代理战争游戏”。

けっして、嫌味で言っているのではないが、自分の思いどおりになる部下を上手に使って、自分のキャリアを上げていく、ある意味、大人にとっても理想的な処世術につながるゲームでもある気がする。

我绝非心怀讥讽,但这套“巧妙驱使绝对听话的忠诚部下、为自己博取功名利禄”的机制,在某种意义上,恰恰暗合了成年人梦寐以求的最理想处世哲学。

ビジネス本によくある「人を動かす」出世本や、様々な国作りをした色々な指導者を描いた小説が持っている人心掌握術に対するあこがれをくすぐる部分が、『ポケモン』ゲームにはある気がするのは僕だけだろうか?

在畅销商业书架上随处可见的“驭人之术”、或是那些描绘开国帝王雄才伟略的历史小说中,人们对于将部下玩弄于股掌之中的操控欲望,难道在《宝可梦》这款游戏中没有极其微妙的投射吗?想必绝非唯有我一人抱有这般体察。

現代の複雑な子供の世界にあっても、自分の思いどおりに動いてくれる友人というのは、理想的な存在だろう。

在当代错综复杂、充满霸凌与排挤的儿童现实世界里,一个百依百顺、完全按自己心意行动的伙伴,是何等具有致命吸引力的完美存在。

しかもそれは、1人だけでできるゲームである。

更重要的是,这是一个完全可以独自一人深锁闺房沉溺其中的封闭游戏。

子供たち同士の話題にはなるだろうが、それが人間としての付き合いに発展するかどうかは僕には疑問である。

同龄孩子之间固然能以此为谈资,但那是否真能促成彼此作为独立生灵之间深层的人格交往,在我看来是要打上一个巨大问号的。

ゲームクリエーターは、『ポケモン』に通信機能を持たせ、ゲームによる子供たちのコミュニケーションを促進させようとしている意図を表明しているが、通話量やメール交信量がいくら多くても所詮は一方通行で、それが生身の人間同士のふれあいとは言い切れない、現代の携帯電話の異常な普及と同じような気がしないでもない。

游戏主创们对外宣称,为《宝可梦》注入联机通信功能是为了促进孩子们跨越现实壁垒展开人际交流;但我总觉得,这就好比当下手机通讯业务的畸形爆发——通话时长再长、短信来往再频繁,终究不过是隔着屏幕的单向讯息宣泄,与真正活生生的人与人之间带有体温的灵魂碰撞,根本不可同日而语。

05

觉醒自我意志的棋子叛乱:高高在上的训练家们被粉碎的战栗

だが、現代のゲームとしては、『ポケモン』のこの構図はよくできている。

然而,作为一款当代电子娱乐产品,《宝可梦》的这套商业闭环在设计上确实堪称无懈可击。

どの道、ゲームはゲームなのである。

归根结底,游戏就是游戏。

かつて、僕の小説が、ファミコンゲーム化されたことがある。

早年间,我执笔的一部小说曾有幸被改编移植为红白机(FC)游戏。

ゲームクリエーターの方達は、僕の意見を尊重し参考にしつつ、小説のストーリーどおりとても熱心にゲーム化してくださった。

负责开发的主创团队极其尊重并虚心倾听我的意见,极为诚恳忠实地还原了小说的情节脉络。

よくできたゲームだといってよかったし、僕も感謝した。

平心而论,那确实是一款制作极度精良的游戏,我至今对开发同仁深怀谢意。

しかし、小説のストーリーには忠実でも、小説のテーマはすっとんでいて、結局、バトルがメインのゲームになっていた。

然而,尽管故事主线忠于原著,小说深沉的悲剧母题却在改编中被抽离殆尽,最终无可避免地沦为了以打怪对战为核心玩法的常规通关游戏。

バトルに明け暮れ、いつも死を覚悟し、むしろ死にたがっているかに見える主人公が、やがてバトルを否定し、生きようとを決心するのを最終テーマにした小説が、ゲームになるとバトルの面白さが中心になってしまう。

在小说中,主人公整日沉沦于血雨腥风的争斗,时常直面死亡的深渊,乃至内心深处一心求死;直到后来在历经磨难后彻底否定了杀戮战斗,立誓为了生命的尊严顽强活下去——这样一部探讨生命救赎的小说,一旦被装进游戏的外壳,整个作品的焦点便不可逆转地变成了“杀敌通关的爽快感”。

死にたがっている主人公が、バトルに負けて死んでも、ゲームではリセットで生き返ってしまうのだからどうしようもない。

在小说里一心求死的主角,在游戏里被怪物杀死后,玩家只需按一下重置便能若无其事地复活满血,这让文学层面的死亡思考彻底沦为了毫无重量的荒诞泡影。

僕はゲームを批判しているのではない。ゲームとは、どんな形をとってもバトルであり勝負の勝ちが快感になる媒体なのだ。

我并非在刻意抨击游戏这种媒介。游戏无论披着何等优雅的外衣,其内核本就是一场又一场胜负竞争,以战胜对手的胜利反馈为最高快感的特殊载体。

ゲームは、本来、戦いが好きな人間の本質を突いて、戦いを疑似体験させる優れた媒体だと思う。

它精准击中了人类嗜好争斗的天性弱点,是一款能够让凡人安全体验模拟战争的卓越工具。

ただし最近の過激でリアルな表現のバトルゲームは、子供や幼い大人への影響が気になりはするが……。

只不过,近来那些越来越逼真、动辄断肢飙血的血腥写实游戏,对于三观尚未定型的青少年与心智低幼的成年人究竟会带来何等潜移默化的毒害,确实令人忧心忡忡。

で、映画『ミュウツーの逆襲』は、アニメでありゲームではない。

而电影《超梦的逆袭》,是一部堂堂正正的大银幕电影动画,它绝不是游戏!

ゲームにおけるポケモンは、色々な特徴があり、愛着度はプレーヤーにとってそれぞれあるにせよ、基本はバトルゲームの駒である。

在游戏里,宝可梦即便拥有千姿百态的习性与技能,玩家对其倾注的爱意哪怕再深厚,归根结底无非是玩家棋盘上用于对局厮杀的“棋子”。

その駒が、プレーヤーの意思を無視して、「自分とは何か」などと考え出しては困るのだ。

一旦这枚棋子胆敢违背玩家的意志,竟自顾自地深思起“我究竟为何物”,那整个游戏机制就要当场崩盘。

駒はルールにのっとってプレーヤーの思いどおりに動いてくれなくては困る。

作为棋子,就必须乖乖服从既定规则,唯唯诺诺地依照玩家的指令冲锋陷阵。

ゲームの駒に自己存在を意識されて勝手に動かれては、ゲームにならない。

倘若游戏里的棋子竟然觉醒了自我存在的独立意识、擅自做出违抗操纵的行为,那所谓的对局便根本无法成立。

『ミュウツーの逆襲』は、ミュウツーの「自分とは何か」の問いから始まり、コピーと本物の差別――ゲームのポケモンには、それぞれ能力の差はあっても、ポケモン同士に差別意識はない――を問い、ついには、ポケモン同士のコピーと本物の自己存在を賭けた戦いになる。

《超梦的逆袭》恰恰是从超梦那声石破天惊的自我拷问“我究竟为何物”起始,一路引爆了克隆与本物的残酷歧视——在游戏原作中,不同宝可梦之间虽有种族值强弱之别,但同类宝可梦之间绝无阶级歧视意识——剧情由此不可逆转地滑向了克隆体与本物之间押上生存尊严的决死之战!

それは種類の違うポケモンの戦いではなく、見た目は同じ同種のポケモン同士の戦いである。

那不再是不同物种之间的竞技表演,而是一模一样的同类生灵之间绝望的自相残杀。

ゲームのプレーヤーからしたら、同じ特徴をもった駒同士の戦いである。

若站在游戏玩家的立场来看,这无异于两枚属性完全对称的相同棋子在自相残杀。

ゲームのプレーヤーにとっては、分かりにくいバトルである。

对于习惯了游戏思维的玩家而言,这无疑是极度晦涩困惑、难以理喻的怪异场面。

アニメ上では戦っているが、ゲームとしてはほとんどありえないバトルである。

虽然在动画镜头前浴血搏杀,但作为一款商业游戏,这几乎是绝不可能出现的荒谬逻辑。

アニメの中で、ゲームのプレーヤーの位置にいるのは、主人公のサトシを含め、戦いを見つめるトレーナー達である。

在动画的情境里,占据着类似现实游戏玩家生态位的,正是包括主角小智在内的、站在场边目睹这一切的人类训练家们。

いつもは、自分の手持ちのポケモンに戦いの指示は出すものの、表現は悪いが、ポケモンの戦いを高みの見物している連中だ。

往日里,这群人类总是趾高气扬地向手头的宝可梦发号施令、指点江山,说句不中听的粗俗大实话,他们不过是一群置身事外、隔岸观火的看客罢了!

それが『ミュウツーの逆襲』では、自己存在のために戦うポケモンたちを見て、言葉も出ない。

然而在《超梦的逆袭》的高潮战场上,亲眼目睹着宝可梦们完全为了捍卫自我存在的独立权利而扑上去肉搏厮杀,训练家们吓得面如土色,连半句指令都发不出来!

『ミュウツーの逆襲』でポケモン達は、トレーナー達の指示を超えて、ポケモン自身の自己存在のための戦いをしているからだ。

因为在这一刻,宝可梦彻底挣脱了人类的驾驭与使唤,它们在为自己作为独立生灵的尊严而流血牺牲!

06

否定宝可梦对战的绝对禁忌:在小田原大海前枯坐沉思的破局之日

やがて、それは、ポケモンバトルの否定につながっていく。

这一幕,在逻辑上无可逆转地笔直通向了一个巨大的深渊——彻底否定宝可梦战斗本身的合法性!

僕がそれに気がついたのはこの脚本を書いている途中だった。

猛然意识到这一点的瞬间,我正坐在电脑前、剧本撰写到了半途。

『ミュウツーの逆襲』のプロット自体は簡単なもので、ポケモン最強のミュウツーが、サトシやピカチュウと戦う話……程度しか書いていない。

最初提交给制作委员会的《超梦的逆袭》的故事梗概极其简略,不过寥寥数语:讲述堪称宝可梦最强的超梦登场,与小智和皮卡丘展开交锋……仅此而已。

詳しいストーリーは、まず、ミュウツーとはどんなポケモンなのかを考えつつ、脚本を書きながら考えたといっていい。

至于后续那些波澜壮阔的厚重情节,全是我在键盘前一边深思超梦到底是一只怎样的生灵、一边即兴狂飙铺陈开来的。

だが、このストーリー展開は下手をすれば、いや、下手をしなくてもゲームの「ポケモン」の本質を否定してしまう事になる。

然而,这个剧情走向一旦处理不慎,不,哪怕处理得当,其内核都在直接否定着《宝可梦》这款游戏安身立命的立足根本!

『ポケモン』のアニメ化に最初から僕が関わっていたならともかく、僕にシリーズ構成の依頼があったのは、アニメ化が決定した後である。

倘若我从《宝可梦》立项之初就深度绑定参与倒也罢了,但事实是,系列动画化的决定尘埃落定之后,统筹全剧系列构成的重托才辗转落到了我的肩上。

以前もこのコラムに書いたが、僕が参加する以前に、『ポケモン』をどうアニメ化するか、ああでもないこうでもないと様々な意見が出ていて、その議事録が文章化されていた。

以往在专栏里我也曾提过,在力邀我加盟之前,制作团队内部关于究竟如何把《宝可梦》搬上电视屏幕,早已经过无数轮无休止的激烈争辩,各方方案的会议纪要厚厚一叠。

しかも、そのほとんどが「もっと面白いアニメ化の方法があるはずだ」という理由で否定されていた。

而且绝大多数早期提议,都以“肯定能找到比这有趣得多的呈现形式”为由被全盘枪毙。

そもそも、ゲームサイドには、アニメ化自体を懸念する声もあった。

更何况,在任天堂与游戏主创阵营内部,原本便不乏对动画化前景深怀戒备与疑虑的反对声音。

アニメがこければ、ゲームも影響を受けて寿命が短くなる危険があるからだ。

因为一旦电视动画暴死扑街,势必反噬原作游戏,将其原本无限延展的寿命一举腰斩。

そこに、ポケモンバトルを否定するようなストーリーを書いていいのか。

在这样极其敏感微妙的节点上,我竟然在影史首部大电影里,公然写出否定宝可梦战斗的剧情,这真的能被允许吗?!

幸いにして、僕がシリーズ構成したTVアニメ版に、ゲームサイドの方達は好感を持ってくれた。

所幸的是,对于我一手奠定架构的电视动画版,游戏原作的主创团队普遍给予了高度认可与极佳的好感。

だが、逆に、アニメ化を企画し奔走した方は、不満もあったようだ。

然而反过来,那些当年为促成动画化东奔西走、立下汗马功劳的某些企划元老,对我交出的答卷却隐隐存有不满。

もっと、派手で活劇調の正統冒険TVアニメを期待していたようだった。

他们似乎更渴望看到一部充斥着花哨打斗、热血闯关、标准正统的传统低幼冒险动画。

間接的だが、時々、不満の声も聞こえていた。

私下里,我不时能间接听到来自那个方向的微词。

だから、せっかく得たゲームサイドの好感を『ミュウツーの逆襲』でぶち壊したら、プロデューサーサイドは、全部反対派になってしまう。

在这样脆弱的平衡下,倘若好不容易赢得的游戏原作者的好感,被我在这部《超梦的逆袭》中一把彻底砸得粉碎,整个制作委员会与制片团队顷刻间便会全员倒向我的对立面!

おそらく企画時にあっただろうすったもんだのあげく、シリーズ構成に僕の名前を出したのは総監督だろう。

在当初各方争执不休的混沌乱局中,力排众议向高层力荐我首藤刚志挑起系列构成大梁的,毫无疑问正是汤山邦彦总监督。

まず最初に総監督から僕に電話で打診があり、その後、製作サイドからシリーズ構成の依頼があったことからでも、それは明らかだ。

这一点,单从最初是由汤山监督亲自致电向我打探意向、随后官方制作组才正式登门发出委托便可昭然若揭。

プロデューサーサイドに反感を買うような脚本を書けば、総監督にまで迷惑がかかる。

倘若我写出一部激怒所有出品人与赞助商的灾难剧本,不仅我自身万劫不复,连带引荐我的汤山总监督亦将被推向万劫不复的背锅深渊!

だが、クライマックスシーンの描き方次第で、ポケモンバトルの否定は回避できる。

然而,只要能在最高潮的高光场面上找寻到精妙绝伦的破局呈现,全面否定宝可梦战斗的毁灭性危机,是完全可以被化解融通的!

どうすべきか。僕としては珍しく、一日だけ、小田原の海を見つめながら考えた。

到底该如何破局?——生平罕见地,我整整一天放下了手中的键盘,独自一人静静枯坐在小田原冰冷的海滩前,凝视着眼前白浪翻滚的浩瀚大海,陷入了前所未有的漫长沉思。