[访谈翻译] 首藤刚志动画创作手记 第152回:宝可梦的叫声是哪国语言?(代理战争隐喻、彼得潘情结与多国语言会议的废案)
宝可梦动画初代总编剧首藤刚志亲笔手记第152回:深度剖析宝可梦对战背后的伦理隐喻。为什么热血对战不会让观众联想到虐待动物?首藤直言:正因为人类听不懂宝可梦鸣叫的真实含义!对战本质上是人类驱使忠诚生灵代为流血的“代理战争”,而沉迷其中的小智恰如拒绝长大的“好斗彼得潘”。面对制片人提出的“多国语言妙蛙种子国际会议”与“呆呆兽从日出到日落发呆的一天”等奇葩废案,首藤如何坚守世界观底线?以北海道神威岩传说与经典爱情电影《时光倒流七十年》为灵感,他又如何在第20话《幽灵宝可梦与夏日祭典》中注入幽怨绝美的古典纯爱。
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逐段译读
第152回 宝可梦的叫声是哪国语言?
第152回 ポケモンの鳴き声は何国語?
原文
ポケモンの鳴き声に字幕を入れた「きょだいポケモンのしま!?」は、僕の知る限り、スタッフ上層部の反対があったわりには、結果的に日本での評判は悪くなかったようだ。問題は、外国でどうだったかだ。『ポケモン』のアニメ版は、作られた作品のほとんどが外国で放映されているが、放映されなかった作品がないわけではい。ただ、それ以降、ポケモンの鳴き声に字幕を入れるいうエピソードは作られた気配がないので、外国での評価は「???」で、ポケモンの日本語字幕入りエピソードは難しいという事になったのかもしれない。という事は、「きょだいポケモンのしま!?」のような字幕エピソードは、『ポケモン』アニメでは、2度と作られない貴重な珍品と呼ぶことはできるかもしれない。
译文
为宝可梦啼鸣配上字幕的第17话《巨大宝可梦之岛!?》,就我所知,尽管在制作初期遭遇了委员会高层的严厉抵触,但播出后在日本国内的反响出人意料地相当优异。真正令我挂怀的,是海外市场的评价。虽然《宝可梦》动画绝大多数话数都在海外发行,但在此之后,制作组便再也没有制作过任何一集附带字幕的宝可梦回目——这或许证明海外发行方在面对带有原产文字的字幕演出时彻底陷入了困惑,最终将其定性为“难以本土化的雷区”。换言之,《巨大宝可梦之岛》便成为了漫长宝可梦动画史上空前绝后、再无复刻可能的绝版稀世孤品。
对战的隐秘本质:代理战争与“好斗彼得潘”的宿命
対戦の暗黒面:代理戦争と「好戦的ピーターパン」の宿命
原文
ポケモンと人間のふたつがいる『ポケモン』世界の場合、そのコミュニケーションが大切なテーマになると思ったし、互いに交流できない対立か、互いに生きていける共生かの結論が、いつかは提示されないと、終われない気がしていた。ポケモンと人間の友情とか仲間意識とか、いろいろな要素を入れてはいるが、『ポケモン』の基本はバトルであることには違いない。そのバトルも、地球を守るためとか、「水戸黄門」のように正義が悪をこらしめるといういささか単純な大義があるわけでもない。突き詰めて考えれば、ポケモンを使って主人公が相手に勝つ、という代理戦争的なバトルなのである。
译文
在一个唯有人类与宝可梦两类生灵共存的世界里,二者之间的沟通必然是贯穿始终的至高课题;究竟是走向无法理解的对抗毁灭,还是达成相濡以沫的生态共生?若无法给出一个清晰的交代,故事便难言真正画上句号。尽管剧情中倾注了大量友情、羁绊与信任的温情脉脉,但《宝可梦》的绝对底层逻辑终究是对战(Battle)。然而这种对战,既不是为了拯救濒临崩毁的地球,也不像《水户黄门》那样有着惩恶扬善的简单大义名分——往深处狠狠剖析下去,它本质上就是人类驱使宝可梦代替自己争夺胜负的“代理战争(Proxy War)”!
原文
そのバトルの結果が世界を救うなどという見せ方は、あの手この手でできるにしても、主人公が戦いの代理戦争性に気がつかず、延々とバトルに夢中になって、それが毎回のように続くのは、ある意味、大人になりたくない、いわばバトル好きなピーターパンのようなものである。だが、ここで困るのが、代理戦争の道具になるポケモンの存在である。ポケモンは生き物であり、人間と価値観は違うかもしれないが、ともかく意思のある存在である。けれど、もし、ポケモンが人間の思い通りになりたくないという意思表示をしたら、『ポケモン』の登場人物たちは、ポケモンを簡単にバトルさせられなくなる。それでもバトルさせればポケモン虐待に見えかねないし、視聴者も気楽にポケモンバトルを見ていられなくなる。ポケモンの鳴き声の意味が分からないからこそ、ポケモンバトルは、後味の悪いものにならないですんでいると思うのだ。
译文
即便主创团队可以通过各种戏剧手段,将对战的胜负粉饰为拯救世界的壮举,但主角浑然不觉自己身处代理战争的泥淖、年复一年沉迷于战无休止的对决之中,从某种意义上讲,他就像是一个拒绝长大、嗜战如狂的“彼得·潘(Peter Pan)”。然而,真正陷入伦理困境的,是被当作代理战争武器的宝可梦自身。宝可梦是活生生的生灵,纵使价值观与人类迥异,它们也是拥有自主意志的生命。设若宝可梦们直白地向人类表达抗拒:“我根本不想为你的虚荣去战斗打架”,那么训练家们还能心安理得地将它们投向斗技场吗?若在它们哭喊抗拒时仍强令出击,画面便会立刻沦为触目惊心的“虐待宝可梦(ポケモン虐待)”,荧幕前的小观众也将再也无法轻松愉快地欣赏对战!——正是因为人类自始至终听不懂宝可梦啼鸣的真正含义,宝可梦对战才得以摆脱那份令人作呕的残忍余味!
原文
もうひとつ言えることは、自分の言いなりになって戦ってくれるポケモンは、自分の思うように他人が動いてくれない現実の社会に生きている子供たち(大人もだが)にとって、理想的な生き物でもある。自分にとって忠実に動いてくれる生き物(しかも、それぞれが個性的な容貌や性格や能力を持ち、種類も多い)をバトルさせ、ゲームができる『ポケモン』が、様々な人たちから好まれるのは、よく分かる気がする。いずれにしろ、ポケモンの意思がよく分からないのは、『ポケモン』のアニメ版にとってもゲーム版にとっても、バトルを殺伐とした印象から救っていると思う。
译文
另一方面,对于生活中处处碰壁、深感周围他人永远无法顺从自己心愿的现实儿童(乃至成人)而言,对自己言听计从、赴汤蹈火去拼死战斗的宝可梦,简直是梦寐以求的终极理想造物。驱使着对自己绝对忠诚不二、兼具万千形态与酷炫异能的生灵投身争霸,人们为《宝可梦》如痴如狂的心理便豁然开朗了。无论如何,让宝可梦的真实心智隐匿于懵懂混沌的鸣叫之中,客观上确实拯救了动画与游戏,使其免于坠入血腥残忍的杀伐泥潭。
剧本研讨会的奇想迷思:“多国语言妙蛙种子峰会”与“呆呆兽的一天”
脚本会議の迷走:「多国語フシギダネ会議」と「ヤドンの一日」
原文
ところで、ポケモンのそれぞれの名称だが、ピカチュウ以外のポケモンは、外国版では別の名前をつけられていた。そこで、プロデューサーの1人が、奇抜なアイデアを考えた。外国版のポケモンと日本版のポケモンが出会って、会話をするシーンがあったら面白いというのである。例えば、「フシギダネ」の国際会議があって、通訳をポケモン語の分かるニャースがする。国際会議のテーマは「フシギダネのこれからをどうするか?」世界中のフシギダネ語が飛び交い、それを訳す世界中の言語が飛び交う。フシギダネの言葉、ひと言が飛び交い、それをそれぞれの国の人間の言葉で訳すだけで、15分ぐらいかかるだろう。フシギダネの言葉、ふた言で、1話分のエピソード30分が終わる。こりゃ、脚本家としては楽な脚本かもしれない。おまけに、実験作として評価されるかもしれない。と一瞬思ったが、アイデアがあってもストーリーがない。
译文
除了皮卡丘之外,几乎所有宝可梦在海外版都有着截然不同的本地化译名。于是剧本会上某位制片人又脑洞大开:“既然各国名字不同,叫声自然也不同,如果让日本版宝可梦和海外版宝可梦相遇交谈,岂不是绝妙笑料?”他甚至当场描绘起蓝图:召开一场全宇宙妙蛙种子联合国国际峰会,由通晓宝可梦语的喵喵担当同声传译;研讨议题正是《妙蛙种子的未来该何去何从?》。全世界各国的妙蛙种子用各自语言啼叫争吵,喵喵再翻译成日语、英语、法语、德语……妙蛙种子叫一句,全场翻译轮番轰炸15分钟;妙蛙种子叫两句,整整30分钟一集动画宣告完结!我一瞬间甚至阴险地想:这剧本写起来倒是省力至极,说不定还能混个前卫先锋实验作的美名!但冷静下来一想,这纯粹是空中楼阁的噱头,根本构不成跌宕起伏的故事!
原文
で、「ポケモンには国境はありません。同じ種類のポケモンが、人間の国ごとに違う鳴き声をするのは不自然……おまけに、ポケモンは進化して、他のポケモンになります。フシギダネは、フシギソウになって、フシギバナになる。そのたびに国によって鳴き声が変わっていたら、ややこしくてわけが分からなくなります」と言って反対したが、そのプロデューサーはしばらくこだわっていた。記憶に残っているものに、プロデューサー自身は冗談半分かもしれないが、「ヤドンの一日」というのがある。ヤドンは、ほとんど動かない鈍感なポケモンである。その一日をエピソードにしようというのだ。日が昇り、日が沈むまで、ヤドンは動かないし、何も起こらない。それをじっと描こうというのである。動かないことが面白いヤドンを描くのに、他の部分が動いては、面白い効果が出ない。といって、何も動かないアニメなど、そもそもアニメとして面白くない。……という結論になって、このアイデアも止める事になった。
译文
我当即严词驳斥:“宝可梦的世界不存在人类的国界!同一种宝可梦因为人类国家的划分而叫出不同语言,在生物学上荒诞不经;更何况宝可梦还会不断进化,妙蛙种子变成妙蛙草、再进化为妙蛙花,若每次进化在不同国家还要变幻啼鸣,整个世界观将陷入万劫不复的混乱!”然而这位制片人竟执拗地纠缠了好一阵子。类似神来之笔的废案还有“呆呆兽的一天”——呆呆兽是出了名反应迟钝、半天不挪窝的宝可梦,制片人提议整集从日出到日落,镜头就这么死死焊在原地,记录它一动不动的24小时!可如果要突出它的一动不动,周围就不能喧宾夺主;但整整一集连一帧动态都没有的“动画”,又如何配称得上是动画呢?!最终这个冷笑话提案也只得付之一笑、作罢收场。
第20话《幽灵宝可梦与夏日祭典》:神威岩传奇与古典纯爱
第20話「ゆうれいポケモンとなつまつり」:神威岩伝説と『ある日どこかで』
原文
で、予定としては、割り込んで書いたような17話「きょだいポケモンのしま!?」の後は、20話「ゆうれいポケモンとなつまつり」で、「きょだいポケモンのしま!?」より、アイデアは先にできていたものだった。他の脚本家の方たちのシナリオがライトなタッチが多かったので、13話の「マサキのとうだい」のように、根はちょっと暗めで、しかも今までのポケモンのエピソードにない、ロマンチックなものを書こうと思った。僕は、子供の頃、北海道に住んでいた。その積丹半島の海に、神威岩という高さ30メートル以上の岩がそそり立っている。まるで人間が立っているように見える岩で、別名乙女岩とも呼ばれ、昔、ある女性が海に出て行った恋人を待ち続けて、そのまま岩になったという伝説がある。その岩を僕が見に行った時には、頭の部分にかんざしのように花が咲いていた。この岩がとても印象的で、いつか何かの素材に使おうと決めていた。
译文
在插队完成的第17话之后,我迎来了早已构思成熟的第20话《幽灵宝可梦与夏日祭典》(少女峡的千年怨念)。看着其他编剧同僚笔下轻快跃动的明朗篇章,我偏想如第13话《正辉的灯塔》那般,反其道而行之,在底层铺满稍显阴郁、却在宝可梦史上绝无仅有的凄美浪漫色调。童年时代,我曾旅居北海道;在积丹半岛波涛汹涌的碧海之中,巍然耸立着一座高达三十余米的“神威岩”,又名“少女岩”。相传古时有一位绝代佳人在此苦候出海远航的情郎,望穿秋水直至化作万仞礁石。当年我亲临瞻仰时,岩顶恰好盛开着一丛娇艳的野花,宛如美人云鬓上斜插的玉簪——那震撼人心的残照深深烙在心头,我早已暗暗发誓有朝一日必将其化为剧本的血肉。
原文
それと、絵に描かれた女性を愛してしまった男の話。最近では……といっても30年近く前だが、リチャード・マシスン原作・脚本で映画化された、ヤノット・シュワルツ監督の「ある日どこかで」が有名かもしれない。映画は、昔写真に写された女性に会うために、念力(?)で、その女性が美しかった時代にタイムトラベルする男の話なのだが、SF映画と呼ぶより、美男美女の純愛ものと言った方がぴったりなロマンチックな作品で、クラシックのラフマニノフと、ジョン・バリーの映画音楽が上手くマッチした、僕から見れば甘美な映画だった。つまり、20話では、ロマンチックとはほど遠い『ポケモン』に、古風な純愛ものを放り込んだらどうなるかを、ちょっと試してみたかったのである。「ゆうれいポケモンとなつまつり」では、ロマンチックなはずの男役が主人公の道連れのタケシとロケット団のコジロウなので、タッチはドタバタになってしまったが、それでも視聴者にロマンチックな残像のようなものが残れば、上手くいったのではないかと思う。
译文
加之理查德·马瑟森(Richard Matheson)编剧的传世爱情电影名作《时光倒流七十年》(Somewhere in Time)——男主角痴恋上泛黄照片中数十年前的舞台佳人,不惜凭借不可思议的思念执念逆转时空回到佳人身边,拉赫玛尼诺夫与约翰·巴里(John Barry)的配乐如梦似幻。我一直固执地认定:女鬼的幽灵传说背后,往往是一段凄绝惨烈的纯爱悲歌。在距离浪漫最遥远的《宝可梦》里,悍然投掷一枚古典纯爱的绝美炸弹会发生什么?虽然在第20话正片中,为少女幽魂神魂颠倒的男主角不幸落到了小刚与火箭队小次郎两个活宝头上,使演出不可避免地滑向了闹剧式的鸡飞狗跳;但只要能在观众心底留下一抹挥之不去的凄美残影,我的实验便算圆满达成了!不过动画上映后,Game Freak的制作人员却悄悄跑来向我哭笑不得地吐槽:“那个……首藤老师,鬼斯这种宝可梦,其实和真正的死人幽魂没有半点关系啦……”
Archive record 档案信息
- Date
- 2008.06.11
- Source
- WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家」第152回
- People
- 首藤刚志
- Game / Work
- 宝可梦 动画系列、宝可梦 红·绿
- Page
- 未标注
- Language
- ja
- Status
- published