2009 WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」
[访谈翻译] 首藤刚志动画创作手记 第178回:宝可梦剧场版必须能让自己由衷信服……(从“无印良品”到作者性觉醒、与游戏原作方见解分歧的创作定力)
第178回 宝可梦剧场版必须能让自己由衷信服……
映画版『ミュウツーの逆襲』のクライマックスをどう描いたらいいか、小田原の海を見ながら出した結論は、やはり自分が納得できるクライマックスをそのまま書こう、というものだった。
关于电影版《超梦的逆袭》的高潮究竟该如何描绘,我凝视着小田原的大海最终得出的结论是:果然,我还是必须写出连我自己都能够由衷认可的高潮才行。
作为文字作者的拙劣感与“自我表达”的极限
物書きとしてはあるまじきことだし、言ってはならないことかもしれないが、僕は書くことが苦手である。
作为一个以文字谋生的人,这或许是绝不该说出口的大忌,但我其实非常不擅长“写字”这门行当。
自分の中にある何かを誰かに表現したい気持ちはあるが、その手段に文章を書くという行為を使うのが、どうも好きになれないのだ。
我内心深处确实有种想要将自己的某种心绪向他人倾诉的渴望,但若要使用“写文章”这一行为作为手段,我实在是怎么也喜欢不起来。
子供の頃からそうだし、実は、ものを書く事でしか食べる糧がなくなってしまった今でも、その気持ちは消えない。
我打小就是这样;事实上,即便到了如今除了码字之外再无其他糊口谋生手段的今天,这种抗拒的心情也从未消散过。
文という表現手段が、自分をしっかり表現できると思えないのだ。
因为我始终不认为“文字”这种表达载体,能够切实地把真正的自己淋漓尽致地表达出来。
僕の文章表現能力不足といっていいのだが、自分の思ったこと、感じたことを、しっかりと伝える単語や文章を見つけられないのだ。
你可以说这是我文字驾驭能力的匮乏。我无论如何也找不到能够百分之百将自己内心所思所感精准传达出去的词汇与句式。
だから、自分の書いたものを読み返した時に、自分の表現したいこと……ここで言っている表現とは、相手に対するメッセージとは違うもの種類のもので、自分自身の感性を伝える種類のもののことである……が自分でくっきりと書けているとは思えないし、まして他人に伝わるかどうか自信がない。
所以,每当我重读自己写下的文字时,我想要表达的东西——我这里所说的“表达”,并非指传达给对方的说教式讯息,而是指传达自己内在感性的那种东西——我并不觉得自己能将其清晰明了地诉诸笔端,更遑论抱有能准确传达给他人的自信了。
いつも消化不良の感じがある。
胸口总有一种挥之不去的消化不良感。
突然、妙なことを書きだすが、異性を口説くということは、ある意味、自己表現をして、相手に好感を持ってもらうことである。
虽说突然扯开话题有点奇怪,但所谓追求异性,某种意义上也是一种自我表达、并博取对方好感的过程。
若い頃、ラブレターで女の子を口説く自信はまったくなかったが、恥ずかしながら、直接相手と会ったり電話で声で話し合ったりしたら相手を口説ける自信が、僕にはあった。今となっては遠い昔の自信過剰ではあるが……。
年轻的时候,我对于靠情书去打动女孩完全没有半点自信;可说来惭愧,倘若能够直接与对方当面相见、或者在电话里用真实的声音交谈,我倒是有着能把对方说服打动的迷之自信。虽说到了今天,那不过是早已逝去的年少轻狂与自信过剩罢了……
バカなことを書いてしまったが、ようするに自分を表現したいなら、その表現手段としては、相手に様々な誤解を生むだろうが、それでも相手の反応が返ってくる会話という行為の方がいいし、体を動かして行動する方がいいし、絵や音楽などの相手の感性に直接訴えかける文章とは別の表現行為――つまり相手の文章読解力に頼らない表現、これは僕自身の文章表現能力に自信が持てないから言えることである――の方が、自己表現としては優れていると今でも思っている。
虽说写了些蠢话,但总而言之,如果你真想表达自己,作为表达手段,对话虽然可能会引发对方的诸多误解,但好歹能立刻得到对方的真实反馈;或者活动身体去付诸行动;亦或是绘画、音乐这种能直接诉诸对方感性、完全独立于文字之外的表现形式——换言之,不依赖对方文字阅读理解能力的表达方式(这正是我对自己文字表达能力极度缺乏自信才能说出的话),我认为作为自我表达而言都要优秀得多,直至今日我依然这么坚信着。
極端に聞こえるかもしれないが、自己表現方法なら、曖昧な文章より、はっきりと事物を表現できる世界共通というか人類共通の言語と言える数式の方が表現方法として優れているとすら思っている。
听起来或许有些走极端,但在自我表达的方法上,比起暧昧模棱两可的文字,能够清晰无误地表述客观事物的数学公式——这一堪称全人类共通的世界语言,在表达的精准度上甚至远比文字优越得多。
だから、表現することで生きていくとしたら、文章ではない、絵や彫刻や音楽の芸術、体を使うバレエなどの舞踏、自分の味覚が相手に伝わる調理、でなければ、そんな表現方法とまったく逆に思えるが、世界共通の事物の真理を追求する様々な分野の科学の方が、文章書きより表現者として適していると子供のころから思っていた。
因此,如果要靠“表达”活下去,我打小时候就觉得,绝不该选文字:要么是绘画、雕塑或音乐这类艺术,要么是动用肢体的芭蕾舞,要么是能将自己的味觉直接传递给对方的烹饪,抑或是看似与这些感性截然相反、却在探寻全人类共通客观真理的各领域科学——这些都比当一个文字写手更适合作为一名真正的“表达者”。
僕が子供の頃、大人になったらなりたかったのは、まず科学者であり、次に画家であり、音楽家だった。
我孩提时代长大后最想当的,首先是科学家,其次是画家,再次是音乐家。
自分の自己表現ということなら、よくも悪くも国や地方自治体を動かす政治家のほうが、物書き業よりましだと思っていた。
即便是从“自我表达”的角度来看,哪怕毁誉参半,那些能左右国家与地方政局的政治家,都比当个文字匠强得多。
そんな僕が、なぜか物書きになってしまった。
可就是这样的我,不知为何,阴差阳错地成了一名专职文字写手。
それも、僕個人の自己表現でなく、多くの人の自己表現が集合して作られる、映像や演劇関係の物書きである。
而且,还不是从事纯粹个人的自我表达,而是投身于汇集无数人自我表达的影像与戏剧领域的剧作家。
時々ガス抜き風に、1人の自己表現らしき小説やエッセイ風のものを書くが、それにしても、出版社や編集者が関わっている。
虽然我偶尔也会为了宣泄解压,写点看似属于个人自我表达的小说或随笔,但即便如此,背后依然牵涉着出版社与编辑的重重目光。
まして、自己表現手段としての文章は、僕としては苦手な書くという行為が伴わざるを得ない。
更何况,作为自我表达载体的文字,必然伴随着我最为厌恶的“写字”这一物理行为。
僕にとっては悪夢のような状況である。
对我而言,这简直就像一场醒不过来的噩梦。
なぜこんなことになってしまったのか、この不幸(?)については語ると長くなるので、ここではなくいつか書こうと思っているが、ともかく僕はそんな物書きである。
事情究竟是如何沦落到这一步的?细说起这份“不幸”(?)来可就说来话长了,这里就不展开,改天有机会再详谈吧,但无论如何,我就是这样一个古怪的文字写手。
要するに、物書きにはなりたくてなったんじゃないのである。
简而言之,我根本就不是因为“想当”才去当文字写手的。
面对“原作漫改”时编剧的自尊与自我信服
だからこそ、なおさら、客観的に見れば書いたものの出来不出来はあるだろうが、少しだけでも自分で納得できるものしか書きたくない。
正因如此,客观来看我写出来的东西即便有优有劣,但哪怕只有那么一点点,我也只想写出连我自己都能由衷信服的作品。
いつしか、自分が納得できる部分がないものを書こうとすると、書く前に体調がおかしくなるようになってしまった。
不知从何时起,如果我试图去写一些连我自己都无法认可的内容,在动笔之前,我的身体状态就会骤然出现严重的生理异常。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、僕にとって、自分が納得できないものを書くことは、命がけの行為になってしまう。
这听起来或许很夸张,但对我来说,去写连自己都无法认同的东西,等同于赌上性命的搏命之举。
脚本に限って言えば、僕には、原作のある作品の脚本が少ない。
单就剧本而言,在我经手的履历中,有既成原作的作品其实少之又少。
原作のよしあし、僕がその原作が好きか嫌いかは関係なく、僕の自己表現として、その原作の映像化が僕に納得できるかどうかが問題なのである。
与原作本身的优劣、或者我自己喜不喜欢那部原作毫无关系,真正的问题在于:作为我的自我表达,将这部原作影像化之后,我自己是否能够认可信服?
そもそも、原作は原作そのものの力で存在している。
归根结底,原作原本就是凭借原作自身的力量独立存在的。
映像化すれば、原作とは違うものにならざるを得ない。
一旦将其搬上荧幕,它就不可避免地会蜕变为与原作截然不同的产物。
それを、その原作を好きな読者である僕が、納得できるだろうか?
面对这种蜕变,作为一个原本深爱该原作的读者,我难道能够心安理得地接受吗?
僕のようなタイプは、その原作を好きになればなるほど、映像と原作の違いが気になる。
像我这种性格的人,越是深爱那部原作,就越是会对影像与原作之间的差异耿耿于怀。
他人の原作を脚本化すれば、そこには、僕の自己表現が入ってしまう。
如果给别人的原作写改编剧本,我的自我表达势必会强行渗透进去。
原作と僕の自己表現がまざりあった妙なものができ上がってしまう。
结果就会诞生出一种将原作与我的个人表达强行杂交混合在一起的古怪畸形儿。
僕は、それが気持ちが悪いのである。
对我而言,那种感觉恶心极了。
それを書いていると、体調がおかしくなる。
真要写那种东西,我的身体机能就会瞬间崩溃。
もちろん、僕が、その原作が大好きで、リスペクトを込めて原作どおりに映像化したくなる作品があるかもしれないが……今のところ、そこまで僕がその気になる原作と出会っていない。もし、そんなことがあるにしても、その映像化には僕の自己表現が入ってしまうだろう。
当然,也许未来会有某部原作让我爱到无以复加,心甘情愿怀着绝对的敬意照搬原作将其影像化……但截至目前,我还没遇到过能让我动心到这种地步的原作。即便真有那一天,在影像化的过程中也依然会渗透进我的自我表达吧。
だから基本的に、原作を尊重しろと言われたり、僕自身が原作を尊重したかったりするものの脚本はお断りしていた。
因此在原则上,只要对方要求“必须绝对尊重原作”,或者我自己下意识想要过度尊重原作的项目,我统统都会予以婉拒。
そのうち、原作を尊重しなければならない作品の依頼もこなくなった。
久而久之,那些必须亦步亦趋尊重原作的作品委托,也就再也没有找上门来了。
僕にとってはそれでいいのである。
对我来说,这样正好。
僕の脚本には、原作のあるものも確かにある。
当然,在我写的剧本里,也确实存在有原作的作品。
だがそれは、原作者が、原作と映像の違いが分かっていて、僕の自己表現が入っていいと了解しているものに限られる。
但那仅限于原作者深谙原作与影像之间的鸿沟差异、并且明确首肯允许我注入个人自我表达的作品。
なおかつ、僕の自己表現がその原作の映像化に必要だと僕自身が納得できるものに限られる。
更进一步说,唯有连我自己都确信“这部原作的影像化确实需要我的自我表达”时,我才会接手。
だから、原作のあるものの脚本化の依頼が来たときは、その原作自体も読まずに、まず最初に断り、それでも僕のシリーズ構成と脚本が必要だ、と依頼者が繰り返し依頼してきたものだけを脚本化の対象にしていた。
所以,当有漫改原作的剧本委托找来时,我甚至连原作看都不看,首先第一反应就是回绝;只有当委托人三番五次找上门,坚持宣称非要我的系列构成与剧本不可时,我才会将其列入考虑对象。
しかし、依頼してくるのは、映像化する制作会社のプロデューサーや放送局のプロデューサーが常だから、原作者と脚本化する僕の中間の位置にいる。
然而,前来接洽的通常是制作公司的制片人或电视台的制片人,他们处在原作者与我这个编剧之间的中间地带。
僕への依頼は、色々な事情があるから、原作者の気持ちが、直接、僕に伝わってくるわけではない。
由于中间夹杂着复杂的行业隐情,委托人的话往往并不能直接代表原作者本人的真实心声。
そこで僕は、原作者とその原作を出版している出版社の編集長と直接お会いして、「僕が脚本化していいのか?」と、確認をとることにしている。
因此我的做法是:一定要与原作者本人以及出版该原作的出版社总编辑当面面谈,直截了当地核实确认:“真的可以让我来写这个剧本吗?”
その時は、原作を映像化した時にどうなるかの、僕の構想の概略を話している。
每到这时,我都会向他们交代把原作搬上银幕后的大致构想轮廓。
つまり、原作をベースにした僕の自己表現作品になる危険性があってもいいのか? ということの念押しをしているのだ。
换句话说,我是在当面向他们反复叮咛确认:哪怕这存在着沦为“以原作壳子包装的首藤个人表达作品”的巨大风险,你们也真的毫不介意吗?
で、その確認と了解を受けたうえで、シリーズ構成や脚本化をすることにしてきた。
只有在获得了对方深思熟虑的确认与谅解之后,我才会正式启动系列构成与剧本创作。
今のところ、原作者や編集長から、難色を示されたことはない。
迄今为止,原作者和总编辑们从未对我的构想面露难色。
原作者が僕の仕事場を訪ねてきてくれて、脚本化を喜んでくれた事もある。
甚至还有原作者专程跑到我的工作室来,由衷为剧本的诞生感到欢欣鼓舞。
一度だけ、第1話の脚本を読んだ、ある原作の、原作者でもなく編集長でもなく、原作編集担当の方が、「あまりに原作と違いすぎる」とクレームをつけてきたことがあったが、放映された作品を見て、「あの原作があんなアニメになるとは……原作以上に原作に近くて勉強になりました」と、わざわざ手紙をくださったことがある。
唯独有一次,某部作品的责任编辑(既非原作者也非总编辑)在读完第1集剧本后提出抗议,抱怨“这跟原作改动实在太大了”;然而在看到正式播出的成片后,那位编辑却特意给我寄来长信由衷致歉:“真没想到那部原作搬上银幕后竟然会是这样的动画……这比原作更加贴近原作的核心精髓,让我大开眼界、受益匪浅。”
僕としては、原作をベースにして少しだけ自己表現したつもりだったのだが、それを喜んでくれて僕もうれしかった。
虽然我当时只是打算借着原作的由头稍微释放一点自我表达,但看到对方由衷欣喜,我也感到非常高兴。
つまり、原作があろうとなかろうと僕自身が脚本を書くことに納得できなければ、脚本を書かないというか、体調が悪くなって書けなくなるのである。
总而言之,不管有无原作,如果我无法在内心深处对写这部剧本感到自我信服,我就写不出来——或者说,我的身体就会彻底垮掉而无法动笔。
だから、僕の書いた脚本は、出来がよかろうと悪かろうと、書く行為自体が嫌いな僕が、少しは納得して書いた脚本である。
因此,我笔下写出的剧本,不论成色是好是坏,都是由原本极端厌恶写作的我,在至少得到自我认可的前提下倾注心血写就的。
ということは、自分のシリーズ構成した作品、僕の書いた脚本には、僕自身の責任があるし、それを問われれば受けて立つ気持ちでいた。
这意味着,对于由我担任系列构成的作品、由我亲手执笔的剧本,我自始至终承担着不可推卸的责任;一旦受到任何质疑与问责,我都做好了横刀迎击、全盘接招的心理准备。
そんな姿勢で、長い間、脚本に関わってきていた。
漫长岁月以来,我就是秉持着这样近乎执拗的姿态,与剧本打着交道的。
赌在动画版《宝可梦》上的自我存在
そこに、ゲームの「ポケモン」のアニメ化である。
而就在这时,将电子游戏《宝可梦》改编为动画的重任落在了我的肩上。
今さら、僕の書いてきた脚本への姿勢は変えられえない。
事到如今,我怎么可能违背自己坚守了一生的编剧姿态?
それまで続けてきた姿勢を変える事は、今まで僕の書いた脚本のタッチを変節させる事であり、それまで僕の脚本を受け入れてくださっていた方達への裏切りになる。
如果改变一直以来的创作姿态,就等于彻底扭曲了我过去所有剧本的笔触与灵魂,这是对迄今为止一直信任并接纳我剧本的人们的背叛。
様々な工夫を凝らしていても「ポケモン」の基本はバトルゲームである。
无论在机制上做了多少精妙包装,《宝可梦》的根本底色依然是一款对战游戏。
バトルゲームの本質であるバトルを否定していいのか?
那么,作为对战游戏核心本质的“战斗”,难道是可以被否定的吗?
アニメ作品として、自分の納得できる脚本を書くべきか。
作为一部独立的动画电影作品,我是否应该写出连我自己都能够由衷信服的剧本?
バトルを否定しないクライマックスを書くことは可能だ。
若要写一个绝不否定战斗的高潮结局,当然易如反掌。
両者引き分け、ミュウツーが「今度、戦う時は必ず勝ってやる」と、捨て台詞を残して去ればいいのだ。
只要让双方打成平手,最后超梦留下一句落荒而逃的狠话——“下次再交手时,我绝对会打赢你们”,然后扬长而去便万事大吉。
その結末では、バトル自体を否定してはいない。
采用这种传统结局,既不会否定战斗本身。
バトルが無意味だとは言っていない。
也不会指出对战毫无意义。
だが、そのラストでは、僕は納得できない。
但是,那样的结局,我自己绝对无法信服,过不了自己这一关!
で、いささか考え込んでしまったのだ。
因此,我陷入了极度痛苦的沉思与煎熬之中。
しかし、僕はミュウツーの自己存在への問いかけを考えるうちに、アニメ版『ポケモン』のシリーズ構成としての自己存在も考えている自分に気がついた。
然而,当我在不断拷问超梦对自我存在的困惑时,我猛然惊觉,自己也正在拷问着作为动画版《宝可梦》系列构成的“我自己的存在意义”。
アニメ版『ポケモン』は、ゲーム「ポケモン」のクローンとして企画されたのかもしれない。
动画版《宝可梦》在一开始立项策划时,或许仅仅被视为游戏《宝可梦》的一个克隆复制品。
だが、アニメとして存在している。
但是,它如今已经作为一部有血有肉的动画真真切切地存在于世了。
ゲーム「ポケモン」のクローンアニメなら、シリーズ構成が僕である必要はない。
如果只是为了搞一部游戏《宝可梦》的克隆动画,那系列构成根本没必要非得找我首藤刚志不可。
僕は、自分が納得しなければ脚本を書かないタイプである。
我是一个如果自己无法认同信服、就绝不可能动笔写剧本的人。
それは、業界でも知れ渡っていることだろう。
这种臭脾气,在整个日本动漫界早已人尽皆知。
それなのに、僕にシリーズ構成の依頼が来た。
即便如此,系列构成的重托依然辗转找上了我。
しかも、僕を推薦したのは総監督であるらしい。
而且,据说在背后竭力推荐我的人,正是总导演汤山邦彦。
総監督は、別の作品で僕とコンビのように言われている人である。
总导演在以往的别的作品中,常被外界视作与我是黄金搭档般的存在。
僕の作風をよく知っていての推薦である。
他是对我笔下风格脾性了如指掌才做出的郑重推荐。
どんな脚本ができるか、およその予想はついているはずである。
我一旦动笔会写出怎样的剧本,大家心里想必早已有了大致的心理预期。
ゲームのクリエーターの方達も、僕の別の作品に好感を持っていてくださっていた。
不仅如此,游戏原作的创作者们,也对我过去的那些作品抱有极大的好感。
それらの作品は、それまでのアニメと比べて、一風変わったアニメだった。
那些作品与当时主流的寻常动画相比,无一不是特立独行、风味独具的异色之作。
つまり、僕が僕の納得する脚本を書かなければ、僕がアニメ版「ポケモン」に存在する意味がないのだ。
也就是说:如果我不写出连我自己都由衷信服的剧本,我首藤刚志在动画版《宝可梦》中的存在就毫无意义!
だったら、バトルゲームというものの基本を否定することになっても、僕の納得できる脚本を書こう。
既然如此——哪怕这一抉择会彻底颠覆对战游戏最底层的根基,我也必须写出让自己问心无愧、由衷信服的剧本!
小田原の早川の浜辺に打ち寄せる波を見ながら、僕はそう決めた。
凝视着拍打在小田原早川海滩上的翻滚浪潮,我终于下定了决心。
早川の名は、言うまでもなく、早川という川が海に流れ込んでいるところからついている。
早川这个地名顾名思义,正是因为早川这条河流在此汇入大海而得名。
今でも覚えているが、子供っぽいバカなことが頭をよぎった。海も川も同じ水だ。しかし、同じ水でも、川と海は違う……。
我至今依然清晰地记得,当时脑海中闪过的一个近乎幼稚孩童般的古怪念头:海与河,本质上都是同样的水;然而,纵使同为流水,河流与大海却有着本质的不同……
僕は自分の納得できるクライマックスを書いた。
于是,我挥笔写下了让自己由衷认可的高潮戏码。
書きあがった脚本のクライマックス部分に、総監督は何も言わなかった。
对于剧本脱稿后呈递的高潮部分,总导演汤山邦彦自始至终没有多说一句责难。
できあがったアニメ作品のクライマックスは、台詞も含め脚本と変わっていない。
最终完成的动画成片高潮,包括每一句台词在内,与我最初提交的剧本原稿毫无二致。
しかし、この脚本、実は賛否両論だったらしい……あの『ポケモン』ピカピカ事件がなければ、『ミュウツーの逆襲』の内容は違うものになっていたかもしれなかった。
然而,这部剧本在当年据说引发了巨大的毁誉参半与激烈分歧……如果没有那起轰动全日本的“宝可梦闪烁事件”,《超梦的逆袭》最终呈现的内容或许早已被扭曲成另一副截然不同的模样了。
では、次回、そのクライマックスについて書いてみようと思う。
那么,在下一回里,我就来好好聊聊那个最终成型的高潮场景吧。