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2009 WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」

[访谈翻译] 首藤刚志动画创作手记 第179回:《超梦的逆袭》的高潮戏剧时刻(肉搏战的惨烈现实、小智挺身而出的石化、皮卡丘绝望电击的剧作推导)

WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」 2009.04.01 约 13 分钟 原文 ↗

Contents 本篇 6 章
  1. 第179回 《超梦的逆袭》的高潮戏剧时刻
  2. 呆然凝固的人类与本能肉搏战
  3. 不确定的自我存在与皮卡丘的决不还手
  4. 喵喵的达观超脱与“侘寂”月夜
  5. 小智的石化与对“死亡”的断然否定
  6. 皮卡丘的绝望电击与“宝可梦眼泪”的剧作推演
01

第179回 《超梦的逆袭》的高潮戏剧时刻

このところ、『ポケモン』の映画版『ミュウツーの逆襲』についての話が長く続いている。僕にとっては比較的新しく記憶に残っていることと、それでいながら、すでに過去の作品だから、まるで他人が書いた脚本の作品のように、かなり冷静に見返せること、そして、このコラムをお読みになっている方達の中でも、すでにこの作品を観た方も多いだろうし――この映画の映画館上映時に子供の頃観た方でも、20代にはなっているだろう――、それに、レンタルDVDや、このところやたらと増えた放送媒体で再放送され、僕の関わった作品では、みなさんが観ようと思えば、わりと簡単に観る事のできる作品のひとつだからでもある。

近来关于《宝可梦》电影版《超梦的逆袭》的话题连载了相当长的一段时间。这一方面是因为对我而言这是段相对清晰留存在脑海中的记忆,而另一方面,由于它毕竟已是陈年旧作,我如今能够宛如旁观他人执笔的剧本一般、极其冷静客观地重新审视它;加之阅读本专栏的各位读者中,想必已经有很多人看过了这部电影——哪怕是在影院公映时还是小孩子的观众,如今也已经步入二十多岁的青年时期了吧——更不用说后来通过租借DVD以及近来雨后春笋般涌现的各路播放渠道的重播,在所有由我参与的作品中,这称得上是大家只要想看便能相当轻松观赏到的代表作之一。

余談だが、全く別のタイプで今もどこかで再放送されているらしい作品に、『まんがはじめて物語』シリーズがあり、『ポケモン』に興味のない年齢の大人の方達から「『はじめて物語』の首藤さんですか? 今、観ていますよ。あれ、色々調べるの大変だったでしょう?」と聞かれ、僕自身が驚いたことがある。

顺带一提,作为截然相反的类型、据说至今仍在某处电视台重播的作品,还有《漫画初体验》系列(まんがはじめて物語)。我曾遇到完全不对《宝可梦》感冒的成年人惊讶地问我:“您就是《初体验故事》的首藤先生吗?我现在还在看呢!当年为了考证各种历史知识一定费尽心血吧?”这反倒让我大吃一惊。

首藤という名前が珍しいから、覚えてもらえているのかもしれない。

或许也是因为“首藤”这个姓氏比较少见,才让人容易记住吧。

あのシリーズの脚本は、子供向けを装いながら、大人の興味も引くつもりで書いたから、現在の大人の目にも通用しているのは、それはそれなりにうれしいが、このコラムをお読みになっている多くの方達には、興味のない作品かもしれない。

那个系列的剧本虽然披着儿童向科普动画的外皮,但我当初本就是打算同时吸引成年人的好奇心而创作的,如今依然能经受得住当代成年人挑剔目光的审视,这固然让我感到由衷欣慰,不过对于正在阅读本专栏的大多数读者来说,可能并不算什么感兴趣的作品吧。

なにしろ、『まんがはじめて物語』は、裏番組に、大相撲中継とともに、あの『ガンダム』があったシリーズである。

不管怎么说,《漫画初体验》系列当年在同时段遭遇的竞争对手,可是大相扑转播以及那部轰动全日本的初代《机动战士高达》啊。

最高視聴率が28%あったシリーズだが、表向きは子供向け教養アニメだから、『ガンダム』シリーズの視聴者層――いわゆるアニメファン――の視界には届かない作品と思われても仕方ないだろう。

虽然该系列创下过高达28%的收视率纪录,但由于门面上挂着儿童向教养动画的招牌,被《高达》系列的观众层——即所谓的核心动漫粉丝——完全排除在视线之外,也是无可奈何的事吧。

02

呆然凝固的人类与本能肉搏战

余談はさておき、ここで書かなければならないのは、『ミュウツーの逆襲』のクライマックスのことである。

闲话休题。在这里我必须书写的正题,正是《超梦的逆袭》的高潮部分。

自己存在を賭けた本物のポケモンとコピーのポケモンの戦いが始まる。

赌上各自自我存在证明的本体宝可梦与克隆宝可梦之间的血腥混战就此爆发。

そのバトルを目の当たりにして、ポケモントレーナーは言葉もない。

亲眼目睹这场惨烈对战的宝可梦训练家们,彻底陷入了失语状态。

ただ、呆然と見ているしかない。

他们唯一能做的,只有目瞪口呆地呆立当场、茫然注视。

ポケモンとコピーポケモンのバトルは、ゲームでも競技でもない、ポケモンと呼ばれる存在同士の戦いで、人間であるポケモントレーナーの意思の通じない戦いだからだ。

因为此时此刻宝可梦与克隆宝可梦之间的厮杀,既非电子游戏,亦非体育竞技,而是一场同属于名为“宝可梦”这一生命形态之间的死斗,人类训练家的意志在其中根本无法传达分毫。

このシーンを、僕はその場に居合わせたそれぞれのキャラクターの気持ちになって一気に書いた覚えがあるが、後でそのシーンを見直してみると、かなりキャラクターの色分けがはっきり出ている気がする。

我依稀记得,当年在撰写这个场景时,我完全是将自己代入到身处现场的每一个角色的心境之中一气呵成的;后来重温这一幕时,我发现每个角色的性格色彩都被极其鲜明地烘托了出来。

ミュウは、自分のコピーであるミュウツーを無邪気そうに見えながらせせら笑っているのだ。だが、無邪気そうだが、コピーであるミュウツーには負けられない。負けてはならない本物のポケモンである自負がある。

梦幻看似天真烂漫,实则在发出冷嘲热讽般的轻笑,俯视着身为自己克隆体的超梦。然而,即便外表再天真,它也绝不能输给克隆体超梦——它有着作为正牌本体宝可梦绝不可落败的自尊与骄傲。

ミュウツーは、ミュウに勝つことが自己存在の証だ。

而对于超梦来说,击败梦幻正是其确立自身存在意义的唯一铁证。

他のポケモンの本物とコピーのポケモンも同じだ。

战场上其他各族宝可梦的本体与克隆体之间亦是同理。

バトルに勝った方が、存在する意味がある。

只有战胜对方的一方,才有资格获得活在世上的意义。

だからこそ、同一種類のポケモンの本物とコピーの戦いになる。

正因如此,战场才演化成了同一种族宝可梦之间本体对克隆体的残酷内战。

「誰もが(人間も含め)自分とまったく同じものが存在することを認めたがらない」

“无论是谁(包括人类在内),都不愿意承认世界上存在着与自己一模一样的另一个存在。”

ポケモンの病院のジョーイ(女医)は、ポケモンの専門家として、感情を抑え、この戦いの説明しかできない。

宝可梦中心的乔伊小姐作为宝可梦的医学专家,只能极力克制内心的情感波澜,冰冷而客观地向周围解释眼前这场战争的本质。

ロケット団のムサシとコジロウは、その戦いに、自分達の姿を見る。

而火箭队的武藏与小次郎,却在这场搏杀中,清晰地照见了他们自己挣扎的身影。

「この戦いは自分たちの姿を見ているようだ」という2人の台詞は、「自分たちはロケット団だ」といつも大見えな口上で名乗りながら、少しも本来のロケット団になりきれていない、いや、もしかしたら本当はロケット団になる気もない、自分たちの心の葛藤が透けて見える。

“这场战斗,简直就像在看着我们自己一样啊”——两人的这句台词,精准道出了他们内心的剧烈挣扎:他们平日里总是在华丽夸张的登场定场白中高呼“我们是火箭队”,然而实际上他们却从未真正成为过火箭队体制内合群的合格恶棍;不,或许在他们内心深处,甚至根本从未真正想过要成为泯灭人性的火箭队。

自称ロケット団の2人には、むしろ、並みのロケット団ではないという自負さえある(普通のロケット団とは衣装の色も違う)のに、ロケット団を名乗る矛盾があるのだ。

自诩为火箭队干部的两人,反倒有着“绝非寻常平庸火箭队喽啰”的孤傲自尊(就连制服颜色都与普通火箭队截然不同),这本身就构成了他们自称火箭队的巨大荒谬与矛盾。

03

不确定的自我存在与皮卡丘的决不还手

サトシのピカチュウは、野生のピカチュウではない。人間に育てられ、人間とともにいる。つまり本物とは言えない。しかし、とはいえコピーではない。ポケモンとしては、不確かな存在なのだ。

小智的皮卡丘并不是纯粹的野生皮卡丘。它是由人类驯养、与人类朝夕相伴相濡以沫的个体。换句话说,它已经不能算作完全原始的“正牌野生本体”;然而,它又绝非人工制造的“克隆体”。作为一只宝可梦,它的身份存在其实是极为暧昧而游离不定的。

自身が不確かな存在なのに、自分のコピーと戦うことができるだろうか。

当它自身的存在本就充满不确定性时,它又如何能够心安理得地去和眼前的克隆体死斗呢?

自分が不確かゆえに、コピーへの反撃ができない。したくない。サトシのピカチュウがコピーのピカチュウに抵抗しないのは、サトシのピカチュウが持つ性格のやさしさだけではない。自己存在の不確かさもあるのだ。

正因为自身的立场暧昧模糊,它无法、也不愿对克隆体进行反击。小智的皮卡丘之所以对克隆皮卡丘的攻击毫无抵抗,绝不仅仅是因为它性格温柔纯良,更深层的原因正是来源于其自身存在的游移与困惑。

コピーのポケモンも、無抵抗なサトシのポケモンに不確かなものを感じる。

而克隆宝可梦从小智那只毫不还手的皮卡丘身上,同样感受到了一种难以言喻的不确定性。

それは、自身の存在の不確かさでもある。

那份动摇,恰恰正是对自身存在根基的不安。

「なぜ、戦ってくれないのか?」

“你为什么不跟我打?!”

コピーのピカチュウは、何度も何度も、サトシのポケモンを殴る。

克隆皮卡丘一次又一次、发狂般地扇打着小智的皮卡丘耳光。

しかし、サトシのピカチュウは応戦しない。ただ、殴られるままだ。

然而,小智的皮卡丘自始至终没有进行任何回击,只是任由对方不断殴打蹂躏。

やがて、コピーのピカチュウは殴り続ける自己の不確かな存在が悲しくなってくる。

打着打着,克隆皮卡丘看着眼前这个绝不还手的同伴,面对自己不断挥拳的空虚存在,终于涌起了一股无法遏制的悲哀与绝望。

不確かなものと不確かなものの戦いに意味があるのか?

两个同样迷茫动摇的存在之间,互相攻讦厮杀到底有什么意义?

それどころかそもそも自己存在意識に、確かなものがあるのか?

不仅如此,从一开始,所谓的“自我存在意识”,到底又有多少确凿不移的真实成分呢?

それは、「自己とは何か?」と問い続ける自己存在の不確かさにもつながっていく。

这直接通向了那句永恒的虚无拷问——“我究竟算是什么东西?”

04

喵喵的达观超脱与“侘寂”月夜

人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団のニャースは、自己存在について割り切っている。

苦学人类语言而变得能说人话、学会直立行走、曾经一心想要蜕变为人类的火箭队喵喵,对于“自我存在”早就看开了。

人間になりそこなって、本来のポケモンにもなりきれないロケット団のニャースは、自己存在というものに何か諦観したものを持っている。

既没能彻底变成真正的人类,又无法再回归原始朴素的普通宝可梦,火箭队喵喵对所谓的“自我身份”怀有一种近乎看破红尘的达观与谛观。

だが、バトルをすれば体が痛い。死ぬかもしれない。それは現実である。

然而,如果真刀真枪去打架,肉体是会流血剧痛的,甚至可能会丧命。这就是活生生的血肉现实。

自己存在の証明にそれほどの価値があるのか?

赌上性命去证明虚无缥缈的自我存在,真的有那么大的价值吗?

なんとなくロケット団のニャースは、コピーのニャースに空を見上げて言う。

于是,火箭队喵喵漫不经心地抬起头仰望夜空,对对面的克隆喵喵说道:

「今夜の月は満月だろな……」

“看啊……今晚的月亮,想必是个大满月吧……”

自己存在のための戦いなんてどうでもいいじゃないか。ともかく、戦わなければ、ロケット団のニャースも、コピーのニャースも、傷つかずに一緒にのんびり今夜の月を観る事ができる。

为了所谓的自我存在而争斗算得了什么呢?只要大家不打架,火箭队喵喵也好,克隆喵喵也好,彼此都不会受伤,还能在同一个夜空下从容惬意地一起共赏今宵的明月。

達観諦観わびさびの世界のようなものである。

这是一种达到了达观、谛观与日本传统“侘寂(わびさび)”精神的超脱境界。

このフィーリングが、この映画を見た外国の人に分かるかな? と、ふと、僕は思ったが、外国に持っていこうが、そもそも『ミュウツーの逆襲』は日本のアニメである。

我当时心中忽然闪过一个念头:这种细腻独特的东洋韵味,外国的观众真的能够理解意会吗?但我转念一想,不管日后要卖到哪个国家,说到底《超梦的逆袭》本质上依然是一部扎根于日本文化土壤的日本动画。

どこか、日本らしさを入れておこうとも思っていたので、このシーンは消さなかった。

无论如何我也想在作品的某个角落保留住独属于日本的这份感怀,因此我坚决没有删掉这场戏。

分かる外国の人にはなんとなく分かるだろう。

能够心领神会的外国观众,自然会在心中默默体会到吧。

僕は、時々、こういうシーンを書くことが好きである。

在我的创作生涯中,我时常极度钟情于写下这类看似闲笔实则意境深远的场景。

『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のOVA「夢にかける橋」という作品で、どこから見てもヨーロッパに見える街の橋で、お盆の精霊流しのシーンがあるのだが、それも、同じフィーリングである。

在《魔法小天使(甜甜仙子)》的OVA《梦中飞翔之桥》中,在一个横看竖看都完全是正统欧洲风貌的古老小镇石桥上,我安排了一幕日本盂兰盆节放河灯(精灵流)的段落,其中流淌的也是一模一样的东洋神韵与生死感怀。

で、これらの『ポケモン』アニメ常連のキャラクターのリアクションを交えながら、本物のポケモンとコピーポケモンの戦いが続く。

就这样,穿插着这些《宝可梦》动画常驻角色的生动反应,本体宝可梦与克隆宝可梦之间的惨烈厮杀仍在步步升级。

本物のポケモンとコピーのポケモンの勝負はつかず、双方が疲弊し、同士打ちのように次々と倒れていく。

本体与克隆体之间根本决不出胜负,双方气力耗尽,宛如骨肉自相残杀般接二连三地力竭倒地。

しかし、ミュウとミュウツーの戦いは続く。

然而,梦幻与超梦那超越维度的毁天灭地之战却仍在永无休止地上演。

この戦いに意味があるのか?

这场死斗到底有什么意义?!

この戦闘シーン、実は英語版と日本版では少し違っている。

说起这场决斗戏,实际上英文版与日本原版存在着一处非常耐人寻味的差异。

画面や吹き替えられた英訳の台詞の意味は同じだが、バックに流れる音楽が違うのだ。

虽然画面与英译台词的原意保持一致,但作为背景音乐流淌的旋律却完全不同。

日本版はいかにも戦闘シーンらしい派手な音楽。

日本原版配上的是极其符合经典动作决斗大戏的激昂华丽交响乐。

意外なことに、英語版はすこし悲しげなスローバラードが流れる。

而出人意料的是,英文版在此处却响起了一首带有哀伤底色的慢节奏抒情民谣(Brother My Brother)。

戦闘の意味のなさを表現するには、英語版の方が直截な音楽かもしれない。

若论精准表达“战斗本身的荒谬与毫无意义”,英文版的选曲或许在感官上更加直击人心。

日本版は、そこまで直截な表現は必要ないと考えたか、それとも、戦闘シーンだから派手にしたかったかは、脚本を書いた僕は知らない。

至于日版究竟是认为没必要采用如此直白的配乐表述,还是单纯觉得决斗场面必须配上华丽交响,作为编剧的我就不得而知了。

英語版を見たのは、日本語版を見た1年以上後だが、英語版の音楽の使い方を僕は悪くないと思った。

我是在日版上映一年多之后才看到英文版的,当时我觉得英文版这种音乐处理方式相当不错。

『ポケモン』の総監督の作品で、僕の関わった作品は、音楽の使い方に癖があり、その癖が僕は好きなのだが、英語版に彼が関わったかどうかは知らないが、英語版の音楽の使い方の方が、むしろその総監督らしいのではと思ったのは、僕の気のせいだろうか?

在由我参与的《宝可梦》总导演执导的诸多作品中,他在音乐使用上向来有着极具个人风格的怪癖,而我本人对他的这种怪癖一直十分激赏;我并不清楚他是否直接参与了英文版的音乐把控,但当我听到英文版的配乐方式时,不知为何竟产生了一种“这反而更符合总导演一贯美学趣味”的奇妙直觉,这难道只是我的一厢情愿吗?

05

小智的石化与对“死亡”的断然否定

このアニメのクライマックス中のまさにクライマックスは、戦闘が佳境に入った時、主人公のサトシが戦闘を止めさせようとミュウとミュウツーの戦いの間に割って入り、石化して倒れてからの一連のシーンである。

而整部动画高潮中的绝对顶点,正是当战斗进入白热化阶段时,主人公小智为了制止这场残忍的自相残杀,奋不顾身冲入梦幻与超梦毁天灭地的能量风暴之间,被双重攻击击中轰然倒地、彻底化为无知无觉的灰色石雕的那一连串经典戏份。

サトシはポケモンを戦わせるポケモントレーナーであり、その頂点であるポケモンマスターになることを目指している少年である。

小智原本是一名指挥宝可梦战斗的训练家,是一个一心朝着顶峰“宝可梦大师”迈进的少年。

それが、彼の夢だったはずである。

那本应是他生命中至高无上的全部梦想。

バトルを否定するのは基本的に矛盾している。

由他站出来去“否定战斗”,在逻辑底层上存在着根本性的内在矛盾。

しかし、身をもって戦いを止めに入る。

然而,他却以自己的血肉之躯,义无反顾地冲进去阻止这场战斗。

サトシは理屈が分かるほどの大人ではない。

小智并不是懂得那些深奥社会大道理的成熟大人。

おそらく彼は、自分の矛盾を意識していない。

恐怕他自己当时根本没有意识到这种行为背后巨大的逻辑自相矛盾。

自己存在の証明などという問いも分かってはいないだろう。

对于所谓“自我存在的证明”这种沉重的哲学命题,他也必然一窍不通。

ただ、無意味で悲惨な戦いを目の当たりにして、体が動いてしまったのだ。

仅仅是因为,在亲眼目睹了眼前无意义而又极其残酷悲惨的肉搏之后,他的身体先于理智不由自主地行动了起来。

「やめろ!」

“住手啊啊啊——!!”

意識したのではなく、サトシはそう叫び、体が動いてしまったのだ。

并非出于深思熟虑的理性考量,小智只是撕心裂肺地这样呐喊着,身体便已先一步扑了出去。

ミュウとミュウツー戦いの間に入って、双方の攻撃を浴びてしまい倒れたサトシは、死ぬのではなく石化して動けなくなってしまう。

冲入梦幻与超梦对轰风暴中被双方能量直击倒地的小智,并没有死,而是化作了一尊冰冷的石雕,动弹不得。

ゲームであろうと競技であろうといままでバトルを肯定してきたサトシは、無意識でバトルを否定してしまった。

无论是在游戏中还是在竞技场上一直以来毫无保留肯定对战的小智,在这一刻,却在下意识的潜意识深处彻底否定了对战。

サトシの行動は矛盾している。だから動けない。しゃべれない。石になるしかない。

小智的这一行为充满了不可调和的剧烈矛盾。因此,他动弹不得。他口不能言。除了化为顽石,别无他途!

「ポケモン」の世界は、ゲームにしろアニメにしろ死を避けるのがお約束だから、このシーンでサトシを死ぬ代わりに石にしたと解釈した方もいるが、脚本を書いた僕にそのつもりはない。

在《宝可梦》的世界里,无论是游戏还是动画,回避“死亡”的描写向来是不言自明的铁律约定,因此有些人解读为“这是编剧用石化作为死亡的温和替代品”——但作为执笔剧本的我,从来没有半点这样的意图!

死んだらそれで終わりである。

因为一旦死了,那就是万事皆空的终点!

『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のミンキーモモは車に轢かれ死んでしまうが、生き返りはしない。人間の赤ん坊として生まれ変わるのである。

在《魔法小天使(甜甜仙子)》里,甜甜仙子被卡车撞死后是真的死去了,她并没有复活,而是转世投胎成为一名真正的人类婴儿重新降生于世。

死んだものが生き返るのと生まれ変わるのは違う。

“死者起死回生”与“转世重生”,在本质上是两码事。

ミンキーモモは魔法で生き返るのを拒否し、人間に生まれ変わり、人間として生きる事を望む。

甜甜仙子拒绝用魔法复活,而是选择了转生为人类,作为真正的人类去走完漫长的一生。

みんなの祈りで死んだものが生き返るなどという奇跡や神がかりは、僕は好きではない。

借由全员的祈祷让死人复活这种近乎奇迹附体或怪力乱神的情节编排,我向来是极其反感和排斥的。

06

皮卡丘的绝望电击与“宝可梦眼泪”的剧作推演

サトシが石化して倒れた後、サトシのピカチュウが何度も何度も電撃で、石化したサトシをもとに戻そうとする。

小智化作石雕倒下后,小智的皮卡丘疯狂地、一次又一次释放出万伏高压电击,妄图让化为石雕的小智重获生机。

『ミュウツーの逆襲』で、一番「泣かせどころ」のシーンだそうである。

据说这成了《超梦的逆袭》全片中最让人“哭干眼泪”的杀手锏场景。

僕は「泣かせどころ」を意識して書くのは苦手というか嫌いである。

可我这个人,最不擅长、或者说最讨厌的,恰恰就是刻意计算着去写所谓“催泪煽情点”。

このシーンで、泣いてくださる方が多いのは、脚本家冥利かもしれないが、ここは、いわゆる「泣かせどころ」シーンのつもりで書いたわけではない。

虽然看到有无数观众在这一幕感动落泪或许是身为编剧的无上荣幸,但我当时下笔时,绝不是带着所谓“要在此处赚人眼泪”的算计去写的。

サトシのピカチュウがサトシを石からよみがえらそうと、必死に電撃をサトシに加えるのは、サトシとピカチュウの間に生まれた友情や絆のためだけではない。

小智的皮卡丘之所以拼尽最后一丝力气对小智降下电击试图将他唤醒,绝不仅仅是因为它与小智之间孕育的友情与羁绊。

サトシのピカチュウは、バトルに対して、無抵抗でいることでしか自分を表現しなかった。

面对这场疯狂的内战,小智的皮卡丘此前只能用“绝不抵抗”的消极方式来表达自己的微弱抗议。

サトシは、バトル肯定の「ポケモン」世界の中で、しかもバトル至上のポケモントレーナーでありながら、バトルを否定してしまった。

而小智,却在这个全面推崇战斗的《宝可梦》世界中,以一名将对战奉为至高信仰的训练家的身份,以肉身之躯彻底否定了战斗!

バトルに勝つことが価値観である世界を、本人が無意識であるにせよ変えてしまった存在なのである。

哪怕小智本人完全是无意识为之,但他却切切实实成为了那个撬动整个“以胜负定价值”世界底层基石的唯一存在!

自己存在への答えを、潜在意識の中で「戦いを止めさせること」だと見つけて行動してしまった存在がサトシなのだ。

小智,正是在潜意识深处悟出了对“自我存在”的回答在于“阻止这场无谓的战争”,并将其化作实际行动的独一无二之人!

もちろん、サトシ本人は、それを分かってはいないだろうが……。

当然,小智本人当时肯定根本没有想得这么深奥就是了……

サトシのピカチュウは、「ポケモン」の世界に、そんなサトシにいてほしかったのだ。

小智的皮卡丘,正是打心底希望在《宝可梦》的世界里,能够有这样一个哪怕笨拙、却敢于挺身阻止战争的小智活生生地存在着啊!

黙って動かない石のままでいてほしくなかったのだ。

它绝不能容忍小智就这样永远化为一具沉默僵死、动弹不得的冰冷石雕!

しかし、ピカチュウの電撃だけでは、サトシは石からもとのサトシに戻らない。

然而,光凭皮卡丘区区一只宝可梦的绝望电击,根本无法将小智从石化中解救回来。

さらに、他のポケモン達とコピーポケモンの何かが必要だった。

在那个绝境时刻,还需要现场所有其他本体宝可梦与克隆宝可梦所孕育出的某种不可思议的共鸣。

それが、「ポケモンの涙」であり、ミュウツーの心を大きく動かすことにもなる。

那就是“宝可梦的眼泪”,而这份力量,也最终将深深震撼并彻底扭转超梦那颗冰封已久的心灵。

さて、この回で、『ミュウツーの逆襲』のクライマックスの話を終えるつもりだったが、もう少し続きそうである。

原本我打算在这一回就把《超梦的逆袭》的高潮彻底聊完,看来篇幅所限,还得再稍稍延展一些。

当然のことだが、ここに書いたことは『ミュウツーの逆襲』を書いた脚本家の、「書いたつもり」をお伝えしただけで、アニメ映画『ミュウツーの逆襲』を観た方の感想を左右したいわけではない。

当然必须说明的是,我在这里写下的一切,仅仅是作为执笔《超梦的逆袭》的剧作者向大家吐露我当年“下笔时的真实意图”,我绝无意以此去左右任何一位看过本片观众的私人感受。

『ミュウツーの逆襲』を観て、「泣く」も「笑う」も、「つまらない」「くだらない」「時間の無駄」「子供だまし」と思うのも、観た方々次第なのは言うまでもない。

在观赏完《超梦的逆袭》后,究竟是“嚎啕大哭”还是“付之一笑”,是觉得“无聊透顶”、“粗制滥造”、“浪费生命”还是“哄小孩的玩意儿”,这完全取决于每一位观众自己的内心与评判,这是不言自明的至理。

アニメの脚本に興味がある方に、「『ミュウツーの逆襲』というアニメをこんなつもりで書いた脚本家がいた」という一例として良くも悪くも参考にしていただければいいというだけで……そこのところ、よろしくお願いします。

只要能让对动画剧本创作抱有兴趣的读者朋友们,在脑海的某个角落留下“曾经有这么一位编剧,是带着这样一种近乎偏执的狂热心思写下了《超梦的逆袭》”的微小记忆,不论成败好坏能给大家提供哪怕一点点参考,我也就心满意足了……在这个意义上,还请各位多多包涵。本篇未完待续。