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2010 WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」

[访谈翻译] 首藤刚志动画创作手记 最终回:“人人都能成为编剧”(绝笔终章:罗生门式的自我真实、小松左京的托付与最后的告别)

首藤刚志 × 小松左京 × 富野由悠季 × 小黑祐一郎 × 赤冢不二夫 × 芥川龙之介

WEBアニメスタイル「シナリオえーだば創作術」 2010.06.30 约 28 分钟 原文 ↗

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最终回 人人都能成为编剧:绝笔终章:罗生门式的自我真实、小松左京的托付与最后的告别

このコラム、題名が意味するように「誰もが脚本家になれる方法」を、書くつもりだった。連載当初、「アニメ脚本家になった自分を語るより、自分なりのアニメ脚本作法のようなものなら書けるかもしれない。それが、もしかしたら、アニメ脚本家志望の方たちの参考になるかもしれないし……」とアニメスタイルの担当の方に言ったことから始まった。

这个专栏,顾名思义原本是打算向大家传授‘任谁都能成为职业编剧的通达法门’的。回想连载刚刚启动的最初期,我曾对《Anime Style》的责任编辑吐露初衷:‘与其居高临下大谈自己如何成长为动画编剧的陈年琐事,倒不如写写自己独门摸索出来的一套动画编剧作法。倘若这些心得能够给那些立志成为动画编剧的年轻人提供一丝参考借鉴,倒也不失为一件善事……’一切正是由此滥觞。

その時は、まさか、5年も続くとは思っていなかったし、その内容のほとんどが、自分の書いたものの解説になるとは思わなかった。

彼时的我做梦也未曾料到,这个连载竟然会磕磕绊绊一路延宕了整整五个年头;更不曾料到,整整五年的字里行间,绝大部分篇幅居然全都在对自己曾经写下的旧作进行繁复的解密与剖析。

書いたものを読み直して、いささかげんなりしたのは、このコラムに書いたことがこれから書こうかなと思うかもしれない作品の抱負ではなく、すでに書き終えたものへの弁解のように受け止められる節があることである。書いた本人がそう感じるのだから、このコラムを読まれた方がそれを感じても、「これは自作の弁解をしているわけじゃない」と、僕がこのコラムを読んでいる方たちに言えるわけがない。

重新审视自己写下的这一大堆文字,最让我心生沮丧与自惭的,便是在这篇专栏里所倾注的笔墨,往往并非是对未来尚有余力执笔之作的雄心壮志,反而处处透露出一种在为早已尘埃落定的既成作品拼命挽尊与辩解的狼狈气息。就连作为始作俑者的我自己重读时都有此强烈感受,倘若读者诸君从中体味到了同样的辩解之味,我又怎好意思厚颜无耻地向大家辩白‘我这绝不是在为自己的平庸作品找借口’呢?

「誰でもなれる」と僕が書いたのは、脚本家になりたいとは、全然考えていなかった僕が、時に脚本家とか、もの書きが職業だと言われ、事実、今の僕の収入の大半はものを書くことから得たものが占め、名刺には日本脚本家連盟会員と小さく書いておいているからである。

我之所以敢言‘人人皆可胜任’,是因为当年原本对成为编剧毫无半点野心与企图的我,如今却被世人冠以‘编剧’乃至‘作家’的头衔以此为业;事实上,如今维系我生存的大半收入确实皆来自于舞文弄墨的稿酬与版税分成,而我名片的一角也确实工工整整印着‘日本脚本家联盟会员’的微小字号。

別に肩書などどうでもいいのだが、「僕の書いた脚本には、著作権および2次使用における権利が発生しますよ」という意味の表示をしておいた方が、仕事をする相手に対して親切だと思うからである。

我个人对于虚名头衔向来视若浮云,之所以特意在名片上保留这行小字,纯粹是为了善意且明确地提醒合作方:‘我亲手写下的剧本,在法律上是受著作权保护并依法享有二次衍生使用收益权的’,仅此而已,这对于商业合作的对手方而言反而是一种公事公办的体贴。

余談だが、もうひとつ、脚本家連盟に入るときに半ば強制的に(今は任意らしい)入らされた日本放送作家協会という親睦団体のようなものがあるが、そちらの方は名刺に書いていない。この団体、放送台本を書く人たちの親睦団体であるうちはよかったが、放送の台本は未来に残すべき日本文化であるなどと居丈高に言いだして、今はその肩書がみっともなくも恥ずかしくて消した。

顺便扯句闲话,当年加入脚本家联盟时,我还被半强迫式地(如今据说已经改为自愿申请)裹挟加入了另一个名为‘日本放送作家协会’的联谊组织;但那个头衔我早已从名片上彻底抹去了。那个协会如果安分守己仅仅充当电视广播写手们线下聚会扯淡的联谊会倒也罢了,偏偏近年来开始不可一世地摆出救世主的臭架子,大放厥词宣称‘广播电视台本是必须万世流芳的崇高日本文化遗产’;面对这种令人作呕的虚伪嘴脸,我只觉得顶着他们的会员名头是一件极其丑陋丢人的奇耻大辱,索性彻底将其从名片上抹杀了个干干净净。

以前も書いたが、TV放送が始まった時、大宅壮一という人が、一億総白痴化という表現を使った。僕もそれに近いものを今も……いや、今になればなるほど感じるからだ。もっとも、日本放送作家協会会員という肩書があると、日本放送協会(つまりNHK)と間違われて何かと都合がいいという冗談を言う人もいるが(冗談であってほしい)、本気だったら履歴詐欺のようなものである。

正如我前文所述,在电视广播刚刚普及的黎明期,思想家大宅壮一便曾一针见血地痛斥它是让‘一亿日本国民集体智商退化成白痴’的毒瘤。直至今日,我依然对这一论断深以为然……不,应该说随着年岁渐长,我愈发真切地感受到这种白痴化的悲哀。虽然业界曾有人开玩笑说,印上‘日本放送作家协会’的头衔容易被外行误认为是‘日本放送协会’(即堂堂NHK)的体制内权贵,从而在招摇撞骗时大行其便(但愿这仅仅只是个低劣的玩笑),但若真有人借此狐假虎威,那简直与伪造履历的政治诈骗无异。

自称脚本家になるのは、簡単である。放送されようとされまいと、映画化されようとされまいと、何かの脚本を書いたことがあれば、名刺に脚本家と書いても嘘ではない。

若只是想成为一名‘自封的编剧’,门槛低到近乎于无。无论你写下的字句究竟有没有被电视台采纳播出,不论有没有被搬上大银幕公映,只要你生平曾正儿八经动笔写过某种戏剧脚本,你在名片上印上‘编剧’二字,在字面意义上就绝不算撒谎。

脚本家連盟と似たような組織に日本シナリオ作家協会がある……昔、シナリオ作家は映画脚本を書く人で、TV脚本なんかを書く人とは格が違うという、今となってはほとんど無意味な格差をつける人がいて――これ、実写とアニメは格が違うという今も残る風潮と似ている――今も、日本脚本家連盟とシナリオ作家組合は別々に存在している。文化庁がこのふたつを一緒にできないかと提案した時もあったが、それぞれの団体の持つ利害とふたつの組織のお偉いさんたちのどちらかの面子がぶつかって実現しなかった。脚本家が映画の脚本収入だけでは生活できない現在、日本脚本家連盟と日本シナリオ作家協会が、それぞれ別に存在しているのは、ナンセンスにしか思えないし、意思の疎通が悪くて不都合なことも多いと思うのだが……実際に問題が起こっている……古き時代の因習としか言えない感じで両団体は存在している。

在行业内与‘日本脚本家联盟’平起平坐的,还有一个名为‘日本剧作家协会’(シナリオ作家協会)的类似组织……在遥远的旧时代,有一帮傲慢自大的遗老坚称‘剧作家’是专指撰写殿堂级电影大银幕剧本的高贵文人,与在小荧幕上写廉价电视剧台本的底层码字工有着云泥之别,由此人为炮制出了毫无意义的阶级鄙视链——这与如今影视界根深蒂固的‘真人实拍远比动画高人一等’的陈腐偏见如出一辙——以至于直到今天,日本脚本家联盟与日本剧作家协会依然老死不相往来、各自为政。当年文化厅甚至曾出面撮合,试图将这两大同质化机构合并为一个统一的工会组织,却因牵扯到各自盘根错节的既得利益,以及双方协会高层大佬谁也不愿向谁低头让权的虚荣面子,最终不欢而散。在如今仅靠电影编剧稿酬根本无法维持基本温饱的严酷现实下,这两大组织依然固步自封、分立对峙,简直荒谬绝伦到了极点;不仅导致大量行业沟通受阻,甚至在现实维权中屡屡爆发内耗纷争……它们不过是靠着旧时代的陈规陋习苟延残喘的活化石罢了。

自称脚本家ではない、いちおう、どちらかの組織に所属している脚本家になるには資格がいる。

但若想摆脱‘野鸡自封编剧’的标签,堂堂正正跨入这两大官方组织之一成为受认可的正规职业编剧,确实需要迈过硬性的行业门槛。

もちろん、どちらの組織にも所属していないで放送化や映画化されている脚本を書いている方もいる。ぶっちゃけた話、日本脚本家連盟もシナリオ作家組合も脚本家の著作権や2次使用に関するとりたて代理業だから、手数料を取る。その手数料だが、他の著作権代理業と比べかなり高い。仕事をしている相手が、しっかり権利金を払ってくれるなら、なにもわざわざ手数料を取られる余計なとりたて代理業者はいらない。逆に、著作権や2次使用料などいらないと、自分の脚本の権利を相手に買い取られてしまって構わないという方も、肩書きのためだけに日本脚本家連盟やシナリオ作家組合に入る必要はないだろう。

当然,世间同样存在着大量完全不属于任何组织、却源源不断写出大热影视作品的野生编剧大师。打开天窗说亮话,无论是脚本家联盟还是剧作家工会,其核心业务本质上不过是为编剧追讨著作权与二次使用版税的‘催收中介代理公司’罢了,因此它们自然要从中狠狠抽取佣金。而且平心而论,他们抽取的佣金比例比起其他正规版权代理机构要高昂得多。如果你的商业合作方是一家信誉卓著、能够按部就班按期足额支付版权分成的良心企业,你根本毫无必要特意引入一个盘剥抽成的中介代理人。反之,如果你压根不在乎长线的版权分成,哪怕一开始就被制作委员会一次性彻底买断版权也心甘情愿,那么为了区区一个虚名头衔就掏腰包加入这些协会,更是纯属脱裤子放屁的无用功。

そういう人たちはともかくとして、ふたつの脚本家関係の組合のどちらかに所属するには、細かく言えばいろいろあるだろうが、大まかに言って公に放送されたか映画化された脚本が2本以上、そして所属したい団体の推薦者が2名いればいい。

抛开特立独行的独行侠不谈,若想正式叩开这两大工会的大门,除开繁琐的条条框框,其最核心的硬性指标大致不过两条:其一,名下公开放映或播出的正式影视剧本必须在两部以上;其二,必须获得拟加入协会内部两位正式会员的亲笔联名推荐信即可。

インターネットだけや携帯配信の作品が増えている現在、公に放送された作品という意味が分かりづらいが、団体加入の主目的が著作権保護や2次使用の手数料ならば、団体に加入することを拒まれることはあるまいと思う。

在如今纯网络流媒体与移动端手机分发作品野蛮生长的数字化浪潮下,所谓‘公开放映播出’的界限虽日趋模糊,但只要协会的核心诉求仍是追求版权抽成与中介费,它们就绝无可能把这群送上门来的新媒体编剧拒之门外。

つまり、昔と比べ、放送局が増え、ネットや携帯などの通信手段が放送と表現してもおかしくなくなりつつある現在、脚本家になれる人の幅は、どんどん広がっているといえるだろう。

这就意味着,与我们那个被垄断电视台牢牢封锁的旧时代相比,在如今播出平台林立、网络与移动通信早已与传统广播并驾齐驱的时代,普通人叩开编剧大门的物理缝隙与可能性,正在以几何级数被无限放大。

僕がわざわざ言わなくても「誰でもなれる脚本家」の時代は、すぐそこまで来ている気がする。

哪怕无需我在此摇唇鼓舌,‘人人皆可胜任的编剧大航海时代’,也早已轰然兵临城下。

だからといって、僕の書いているこのコラム「えーだば創作術 誰でもなれる脚本家」の内容が赤塚不二夫氏風に「これでいいのだ」では、無責任である。

然而,倘若就此将我这部连载五年的《爱咋咋地创作术:人人都能当编剧》的内核,像赤冢不二夫笔下那样轻飘飘一句‘这样就好啦~’一笔带过,未免显得太不负责任了。

つまり、このコラムでいう「脚本家」は、脚本を2本書き、推薦者が2名いるだけの「脚本家」ではないはずである。

因为在我的定义里,这篇专栏所呼唤的‘编剧’,绝不仅仅是指那些侥幸凑齐两部播出记录、找了两个熟人签字盖章便能领证的所谓‘资格编剧’。

少なくとも、脚本を書くことで一生、食べていけるだろう「脚本家」であり、それも、アニメスタイルのコラムである以上、アニメの脚本家ということである。

它所指涉的,是至少能够凭借手中的笔墨在一生之中稳稳立足尘世、足以糊口温饱的真正的‘职业编剧’;并且既然是刊载在《Anime Style》上的专栏,那毫无疑问,特指能够终身以此为业的‘动画编剧’。

……ここでちょっと脱線するけれど、ちょうど昨日アニメとアニメーションのニュアンスの違いをアニメスタイルの編集者アニメ様がお書きになっているが、商業ベースか非商業ベースかで、アニメとアニメーションを呼称分けするのは、いささか抵抗を感じる。表現方法としてのアニメとアニメーションの呼称分けも、「そうかなあ?」と思う。1秒24コマ(映画の場合)を使ってものを動かして見せるというなら、実写だって同じだろう。ようは、ストーリー性があるとか、作者の個性的表現とか芸術性とかを、重視しての呼称分けだが、売れた売れないの商業ベースと作品の持つ芸術性(それを芸術と感じるかどうか、作者の個性的表現と見るかどうかは見る人次第)は、呼称を変えて比較できるのだろうか? この世の中には芸術と呼ばれながらも売れている作品がいっぱいある。ようするに、作り手に商売っ気があって作ったものがアニメで、自己表現の手段として作ったものがアニメーションというのだろうか?

……在此允许我稍稍离题扯句闲话。恰好就在昨天,Anime Style的主编小黑祐一郎先生(笔名‘Anime大人’)在站上撰文探讨了‘Anime’与‘Animation’在语感上的微妙差异;然而对于依仗‘商业与非商业’、‘大众消费还是小众艺术’来将二者割裂划界的论调,我心底始终抱有强烈的抗拒。若单论视听手段,‘以每秒24帧的连续画格赋予静止事物以运动错觉’这一底层物理法则,哪怕真人实拍电影亦是如此。归根结底,世人不过是执念于所谓的‘故事叙事性’抑或是‘作者作者性的艺术表达’来贴标签罢了;然而一部作品在商业市场上的大卖与否,与其内在蕴藏的艺术价值(更何况所谓艺术与作者性本就属于各花入各眼的唯心判断),难道当真能靠更改一个称谓就能高下立判吗?放眼人类历史,被奉为传世艺术杰作同时在商业上赚得盆满钵满的经典比比皆是。难道创作者但凡心存一丝养家糊口的商业世俗考量,他交出的作品就只配被贬为‘Anime’,而唯有将创作纯粹当成自我排泄手段的敝帚自珍,才配高贵地冠以‘Animation’的桂冠吗?

実は「まんがはじめて物語」という番組の「アニメーション」というエピソードを書いたことのある僕は、アニメとアニメーションの違いをかなり意識しながら無視した。所詮、アニメだろうとアニメーションだろうと、静止したものを動かして見たい欲求から生まれたものと決めつけたからだ。

当年我在执笔《漫画日本物语》其中一集专门讲述‘动画起源’的历史篇目时,其实早已敏锐地意识到了这一称谓之辨,但我最终选择彻彻底底地予以无视。因为在我看来,不论是商业动画还是先锋动画,它们的生命源头,通通不过是人类心底那份‘极度渴望让原本静止死寂的图画在眼前灵动起舞’的原始童稚欲望罢了。

そして、絵や写真は、動いているものの素敵な瞬間を静止する表現だと決めつけた。

而反过来,绘画与摄影,不过是将流动世界中那些震撼人心的美妙瞬间强行定格封存的静止艺术。

抽象画は、作家が描く対象物の瞬間を、作家の感性で描いたものである。

哪怕是晦涩难懂的抽象画,其本质亦不过是画家用自己特有的感性棱镜,去折射描摹所见事物在刹那间迸发的灵魂残影。

……以上、余計なことを書いてしまったが、アニメであろうがアニメーションであろうが、いわゆる実写でないものが動いている映像の脚本で一生食っていける方法を、「誰でもなれる脚本家」という僕のコラムで書こうと思ったのだ。

……以上我又絮絮叨叨扯了一通题外废话,但无论是俗称的动画还是高雅的动画艺术,能够在这片由非实拍的动态光影所构筑的奇幻世界里,单凭一支笔安身立命、吃上一辈子安稳饭的终极法门,正是我开辟这个题为《人人都能当编剧》的专栏最赤裸的本意。

食っていこうということは、商業ベースじゃないか、という突っ込みがくることは予想される。

我完全可以预料到有人会立刻跳出来刻薄质问:‘你整天把“糊口吃饭”挂在嘴边,这骨子里不就是最铜臭庸俗的商业主义吗?’

強引だが、食っていくことと、商業ベースは違うという前提を立てておく。

虽然听起来有些强词夺理,但我在此必须斩钉截铁地立下一个不可动摇的前提:‘维持基本生存的糊口’,与‘唯利是图的商业资本逻辑’,有着本质的鸿沟!

商業ベースとは、儲けることである。

所谓商业逻辑的本质,是追求无休止的资本增殖与暴利。

自分と家族が食っていく以上の、余剰なものを求めるのが儲けることであり、それが商業ベースだと強引に言ってしまう。

超出自己与家人维持温饱生存底线之外、对无止境剩余价值的贪婪攫取,那才叫暴利与商业化!我在此便蛮横地将二者彻底划清界限。

「誰にもなれる脚本家」というテーマを、僕に書く資格があるか?

那么,像我这样的人,究竟配不配有资格来执笔《人人皆可胜任的编剧》这般狂妄的命题?

少なくとも、このコラムを書きだした頃、そして、今もある。

至少在专栏发轫之初,乃至走过风雨五年的今天,我可以问心无愧地挺起胸膛:我确实拥有这份资格。

今、仮に僕が死んでも、家族は何とか食っていけるだろう。

退一万步讲,即便我首藤刚志在此时此刻猝然暴毙撒手人寰,凭借我生前留下的版权遗赠,我的妻子与女儿在世间好歹也能勉强维持温饱、不至于流落街头。

10年以上先のことは分からないが……。

至于十年之后沧海桑田的世事变迁,我自然早已无从预料……

脚本で食えなくなって「誰でもなれる脚本家」なんてコラムを書いていても信憑性がないから、今のうちにこのコラムを店じまいしたほうがいいと思い、今回のコラムを書いている。

倘若真有那么一天,我首藤刚志自己都沦落到了靠写剧本揭不开锅、沿街乞讨的凄凉境地,还在那里大言不惭连载什么《人人都能当编剧》,那岂不是天大的滑稽笑柄?因此,趁着自己尚未晚节不保、好歹还能靠版税体面维生的当下,赶紧将这个专栏彻底关门歇业打烊,才是我最体面的谢幕抉择。正因如此,我写下了这一回的文字。

「誰でもなれる脚本家」……僕がなれたのだから、あなたもなれる。

‘人人都能成为编剧’……像我首藤刚志这般无可救药的荒唐浪子都能以此混迹一生,屏幕前心怀热忱的你,又怎可能做不到?!

まず、脚本で儲けようとしないことである。

第一铁律:千千万万不要妄图靠写剧本去发大财、暴富牟利!

人の受けを狙わないことだ。

第二铁律:绝不要去刻意迎合奉承任何世俗的廉价掌声与受众趣味!

どうせ書くなら自分自身を表現しよう。他にせいぜい書けそうなのは自分の好きな人のことだ。

既然横竖都要耗尽心血落笔,那就去竭尽全力表达最真实的你自己!除此之外,你充其量能够触碰并描摹的,唯有那个被你深深爱慕与挂念之人。

相手のいいところを見つけよう。それを相手に示そう。

去全力挖掘出对方身上那些闪闪发光的真正美好之处吧,然后将它真挚地呈现在对方面前。

好きな人には好かれたいからね。ただし、その表現は相手に分かりやすくだ。

因为爱一个人,自然极度渴望获得对方的倾心啊。但请务必切记:你的表达必须直白而清澈,必须让对方毫无障碍地理解接收。

相手があなたを嫌いでなければ、自分のいいところを他人から指摘されて嬉しくないはずはない。

只要对方并不打心底里厌恶嫌弃你,当自己的闪光点被心上人这般郑重其事地剖白点亮时,世间绝不会有人不感到欢欣雀跃与动容。

しかし、その指摘が分かりにくいと、混乱を招く。

然而,倘若你的表达晦涩曲折、自说自话,便只会给对方招致无尽的困惑与焦躁。

「何言ってんだか……」で、終わりである。

对方最终只会皱着眉头扔下一句‘这家伙到底在胡言乱语些什么鬼东西……’便拂袖而去,全剧终。

自分の指摘が、相手にとって分かりやすいかどうか、つまり、どういう言葉や態度であれば相手にうまく伝わるかは、相手を観察しなければ分からない。

你所倾吐的赞美与心意对于对方而言究竟是否足够清澈直白?换言之,究竟该用何种精妙的字句与肢体神态才能将这份深情毫无损耗地烙进对方的心扉?——若不日日夜夜以最专注的目光去深切凝视并观察对方,你绝不可能参透其中的玄机。

で、好きな人のことは、どうしてもしっかり観察してしまうから、そのうち自分でも相手が分かるような気になる。

而面对自己真正魂牵梦绕之人,你本能地就会去不可自拔地精密审视与观察对方的一颦一笑,久而久之,你心底便会悄然萌生一种‘我似乎已经彻底洞悉看穿了对方’的亲密错觉。

で、あなたの観察が正確ならば、相手もあなたを分かろうとする。

若你的这份凝视与洞察当真精准无误,被你深切理解的对方,也必然会在心底涌起一股想要去探寻并读懂你的对等冲动。

ここで、相手が好きな自分と、そんな自分と相手を冷静に見つめる目が必要になる。

然而正是在这至关重要的节点上,除却那个‘深爱着对方的炽热自我’之外,你的脑海中必须生生裂变出一双‘能够从九天之上绝对冷酷、客观地俯瞰着自己与对方纠缠’的第三只眼!

その冷静な目は、自分が本当に相手が好きかどうかの再確認になる。

唯有那双冰冷彻骨的审视之眼,才能成为帮你重新校准‘自己究竟是不是真的发自灵魂深爱着对方’的终极试金石。

もしかしたら単なる思い込みかもしれない。

因为你那份看似惊天动地的深情,搞不好彻头彻尾不过是你自己一厢情愿的臆想与自嗨罢了。

思い込みで好きになった気でいたのなら、相手にとって迷惑である。

倘若你仅仅是在自己编织的自恋幻象里误以为深爱着对方,那么你的狂热对于对方而言,无异于一场不堪其扰的巨大灾难与折磨。

もっとも、若い時、好きな人が異性である場合は、観察するより先に、口説いたり、手を出したりしてしまうけれど、それはそれで事後に相手を見つめ再観察する。そこでも冷静な目が必要である。自分が口説いたこと、手を出したことが間違いだったかもしれない。

当然,在血气方刚的轻狂岁月里,倘若心仪的对象是异性,年轻人往往还没来得及冷静观察,便早已按捺不住本能展开了花言巧语的追求甚至动手动脚;但即便如此,在激情褪去的事后,你也必须重新凝视对方展开二次观察。在那个时刻,同样必须祭出这双冷静客观的法眼——因为回过头看,你当初轻率的表白与冲动的索取,或许打从一开始就是一场彻头彻尾的弥天大错。

反省するなら、お早めに……。

若要忏悔自省,务必趁早抓紧……

昔は、ストーカーなどという言葉はなかった気がするが、自分の思い込みにのめりこみ、相手に対する観察をおろそかにすると、今ではストーカーにされる。

想当年我们年轻那会儿,社会上似乎还没有‘跟踪狂跟踪骚扰犯’(Stalker)这种刺耳的名词;可一旦你彻底沉溺于自己的自恋执念、对受众对象的真实心理完全丧失起码的同理心与观察,在当今这个时代,你分分钟就会被世人打成十恶不赦的跟踪狂。

もっとも、相手が本当に好きで、相手があなたを好きなら、ストーカーにはならない。相手は、強く愛されていると感じるだろう。

当然,倘若你怀揣的是赤子般的真爱,而对方亦在心底对你抱有深情,那绝不可能沦为跟踪狂;对方只会在心底深刻感受到自己正在被这般炽热而浓烈地珍视着。

あなたと相手がもてる人の場合、普通は、第三、第四の関係者が登場し、そっちに気配りが必要になる。いわゆる三角関係、四角関係だが、これはこれで観察するには面白い。

倘若你与对方皆是备受异性追捧的耀眼之人,顺理成章地,剧情中注定会横空杀出第三者、第四者的复杂利益相关人,你不得不将精力分散去周旋兼顾各个维度的暗流涌动。这便演变成了世俗所谓的‘三角恋情’乃至‘四角迷局’;而这种纠葛在冷眼旁观者的镜头里,反而是最耐人寻味、戏剧张力拉满的观察样本。

で、本人が望まなくても大惨事になりがちである。これは、並みの脚本より面白い。

其最终的收场,往往在当事人完全身不由己的绝望中轰然演变成万劫不复的惨烈修罗场。这种人间惨剧的精彩跌宕,远胜世间绝大多数三流编剧绞尽脑汁编造的平庸戏码。

なにしろ、あなたが主役の展開であるから、文字どおり、他人事ではないリアルドラマになる。

因为在这场浩劫之中,你本人正是深陷漩涡风暴正中央的绝对第一主角,这字字句句都是绝非旁观他人风凉话的、滴着血肉的真实人生大戏。

本当はもっと複雑な関係がありがちなのだが、ややこしくなるので、ここでは例にしない。

现实人际中往往潜藏着比这复杂百倍千倍的混沌泥潭,但若再往下深究未免太过枝蔓丛生,在此便不再过多赘述。

これらのことは、あなたと相手とのことだから、あなたにしか、当事者にしか書けない。

请深深铭记:这些刻骨铭心的爱恨纠葛,是唯独发生在你与对方之间的隐秘宿命,普天之下,除你这位身临其境的当事人之外,世间绝无第二个人能够替你执笔!

当事者たちがそれぞれの目線で書くと、三角関係の場合、最低、みっつのドラマができあがる。それぞれの目線によって真実が変わって語られる「藪の中」形式である。

倘若深陷其中的每一位当事人皆拿起笔来,以专属于自身的视角去重构这场冲突——仅仅以一个三人三角恋为例,世间便会立刻诞生出至少三部截然相反、各自咬定自身正义的完整戏剧大作。这正是芥川龙之介在《竹林中》(罗生门)里所确立的经典多重视角法则:真理随着每一个讲述者立场的流变而彻底碎裂成完全不同的模样。

しかし、冷静な観察者でもあるあなたには、他の当事者の気持ちが分かる気がする。

然而,只要你始终保有着作为冷静观察者的敏锐感知,在冥冥之中,你似乎总能够精准体悟并捕捉到其他当事人心底最隐秘的悲喜与算计。

ひとつの出来事が、あなたには、みっつのドラマに見える。

同一件看似清晰的客观事件,在你的法眼之中,却能够瞬间裂变幻化为三出波澜壮阔的人性大戏。

ただし、このみっつのドラマは、当事者には深刻でも、他人にはどうってことはない。

不过切莫盲目乐观:这三出对于身处其中的当事人而言痛彻心扉、重若泰山的大戏,对于围观的冷漠路人而言,根本无足轻重、无关痛痒。

当事者以外に書いたり話したりしても、他人事としか受け取ってくれない。他人に受けるわけはない

任凭你如何声泪俱下地向圈外人倾诉与撰写,他们也只会将其当成隔岸观火的琐碎八卦,绝不可能发自肺腑为之深深震撼或广泛受落。

でも、本当に親しみをもって書けるのは、これぐらいである。

然而,回过头来看看我们这颗苍白的心——我们这辈子当真能够怀着彻骨的亲近与温存、倾尽灵魂去真诚描摹的,充其量也就只有这区区方寸之地的切身悲欢了啊!

僕を例にすれば、僕の場合、書くことが嫌いである。したがって、知らない他人の受けを気にするようなものが書けるわけがない。自分の書けそうな物しか書いてこなかった。

拿我自己当活靶子来说吧:我生来就极度抗拒写作这件事。因此,让我去煞费苦心地揣摩那些素不相识的广大陌生观众究竟喜欢看什么、并以此去逢迎投机,我从一开始就根本做不到。回望我这一生,我所写下的全部文字,不过是我自己感到勉强能够写得出的那点切身之物罢了。

要は、いろいろ書いたところで自分自身に起こったことの変化球しか書けない。

说穿了,哪怕表面上披着再怎么花里胡哨的外衣,我笔下诞生的所有故事,归根结底全都是发生在我自己身上那些切肤之痛的种种‘变种弧线球’罢了。

ロボットものの登場人物にしろ、魔女っ子ものの登場人物にしろ、結局、同じものからの変化形である。

无论是巨大机甲萝卜片里的悲情英雄与滑稽反派,还是魔法少女动画里灵动救世的纯真少女,剖开皮囊细看,他们全都是从同一个灵魂母体(即我首藤刚志自身)中分裂衍化出来的不同人格变体而已。

しかし、ひとつの三角関係からみっつのドラマが生まれたとしても、しかし、あなたのドラマはひとつである。それは、あなたにしか書けないドラマである。

但是,即便一个微不足道的三角修罗场中能够裂变出三出不同维度的物语,专属于你自己的那一部宿命大戏,在普天之下却永远唯有一出。那是唯独只有你才能亲手谱写、任何人皆无法替代的绝对戏剧!

三人の関係者の中で、あなたにしか書けないドラマがひとつある。

在三个同生共死的当事人里,必定深藏着一出除了你之外世间无人能够挥就的独门物语。

そのドラマも、あなたの気分が憂鬱の時、平常の時、陽気な時、気分次第で姿を変える。

而即便是那一出戏,在你心境阴郁低沉之时、心如止水平常之时、或是神采奕奕亢奋之时,也会随着你当下的情绪律动而变幻出万千截然不同的面貌。

しかし、あなたは、他の誰でもない。あなただ。それを、見失わないことだ。

但无论天翻地覆,你永远都绝非这世间的任何旁人。你,唯独就是你自己!千千万万,切莫在茫茫尘世中遗失了这份属于你自己的独立神魂。

アニメに限らず映像作品は、現実に見える時があるが、所詮、虚構である。

不仅是动画,世间所有的影视映像作品,即便有时逼真得令人窒息,但归根结底它们通通都不过是纯粹的虚构之物。

映像の切れっぱしをモンタージュした作りものである。

不过是一堆人为抓取、剪辑拼贴在一起的声画光影碎片,是不折不扣的人工造物。

現実の三角関係で、最低でもみっつのドラマができるのだから、虚構の世界では、無尽蔵と言っていいほどドラマができるはずである。

既然现实中区区一个最俗套的三人恋情,都能轻而易举裂变出至少三部波澜壮阔的独立大戏——那么在摆脱了物理法则束缚的浩瀚虚构宇宙之中,所能够孕育并盛开的人类戏剧,其数量与维度理应是浩瀚无穷、取之不尽用之不竭的啊!

しかも、この世界は、三角関係の三人だけではなく、何十億もの人がいて、それぞれがみんな違うひとりひとりの個人である。

更何况,生存在这颗蓝色星球上的,绝非区区三角关系里的三具皮囊,而是整整几十亿各不相同、拥有着独立哀乐悲欢的鲜活个体!

そして、あなたの話は、あなたしか描けない。

而属于你自己的那个真实故事,这普天之下除了你之外,绝无第二个人能够替你描绘!

世の中には、大ヒットした映画、アニメ、ドラマがいっぱいある。

环顾当下的世界,席卷全球、动辄引发社会狂潮的商业大爆电影、动画和电视剧数不胜数。

今、現在、ヒットしているアニメが、あなたは好きかもしれない。

此时此刻正在霸占全网热搜、万人空巷的某部爆款当红动画,或许你也正是其中的拥趸之一。

熱狂的なフアンかもしれない。

你或许正是为之彻夜不眠、摇旗呐喊的狂热铁杆粉丝。

しかし、同じ作品の同じ熱狂的ファンをよく観察してみるといい。

然而,请你试着停下盲从的脚步,转过身去,以编剧的冷酷之眼好好观察一下身旁那些自称同样‘狂热深爱’这部作品的其他同好。

その作品の同じ部分に、同じ感じ方で熱狂しているのだろうか?

他们究竟是不是真的因为那部作品里的同一个特定细节,怀揣着与你完全不差分毫的相同感受而在狂热欢呼呢?

もしそうだとしたら、どちらかがどちらかのクローンとしか考えようがない。

倘若答案当真严丝合缝完全一致,那唯一的合理解释,只能是你们两人之间必有一方彻头彻尾是另一方的提线木偶与无脑克隆复制品!

そんなことはあり得ない。

而那种荒谬之事,在客观现实中绝不可能成立。

あなたは、あなたである。

因为你,终究只是独一无二的你自己!

大ヒットした作品とは、大勢の同一意思が大集合した作品ではなく、個々の意思が、てんでばらばらに自分の好みを見つけた結果、たまたまそれが一つの作品だった――そうした結果論だと僕は思いたい。

那些在商业市场上斩获惊天大成功的所谓爆款神作,其本质绝非全天下亿万民众拥有着同一种僵化意志的大集合;而是千千万万个截然不同、各怀心事的独立个体,各自在作品的不同角落里撞见了符合自身隐秘趣味的碎片,最终在统计学上阴差阳错汇聚在了同一部作品的屋檐之下——我宁愿坚信,所谓流行大爆,不过是这般偶然交错的客观结果论罢了。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の結果だとは思いたくない。

我绝不愿将艺术上的大获全胜,视作那种‘只要大家都一起闯红灯,法不责众就没什么好怕的’的乌合之众从众心理的劣质产物。

アニメは、1人では作れない。

动画这部工业机械,从来都不是靠某一个人单打独斗便能造就的。

一部を除き、アニメ業界で創作に関わる人たちの低所得と生活の悲惨さは、最近よく知られてきた。

除去极少数立于金字塔尖的名利双收者之外,奋战在日本动画第一线的各路原画师、演出家们所承受的惊人极低薪资与凄风苦雨般的生存惨状,近年来终于开始被社会大众所广泛认知与揭露。

にもかかわらず、アニメは作られ続け、少なくとも日本の映画界を支えている。

然而即便在如此残酷血腥的剥削炼狱之中,无数动画依然被前赴后继地源源不断生产出来,甚至以一己之力傲然支撑起了整个日本电影工业的半壁江山。

DVDの売り上げも多い。

相关的实体音像制品与衍生蓝光DVD销量长盛不衰。

質も上がってきているようだ。

画面精细度与视听工业品质亦在肉眼可见地持续攀升。

それは、制作スタッフそれぞれの、個人の創作意欲に関わるところが多い気がする。

支撑这一奇迹的底色,在我看来,很大程度上正是仰赖于身处基层的每一位具体创作者心头所燃烧的那团纯粹的个人创作欲望与艺术尊严。

アニメ(アニメーション)制作は食わねど仕事仕事、「武士は食わねど……」どころではないだろう。

动画人投身于这份事业,早已不是什么古人所谓的‘武士哪怕饥肠辘辘也要叼着牙签装饱汉’的风雅清高,而是真切地在忍饥挨饿中为信仰拼命燃烧命烛。

それは、それぞれが、いつか自分自身の作りたいアニメ(アニメーション)を作りたい気持ちの集積なのかもしれない。

推动他们熬过漫长寒冬的唯一支柱,大概正是深藏在心底深处‘有朝一日,我一定要亲手做出唯独属于我自己的传世动画’的那份赤子之心的浩瀚凝聚吧。

はっきりいって、アニメ業界で、脚本家は恵まれている方であろう。

若要说句掏心窝子的大实话:在整个饱受剥削的动画工业流水线里,坐在桌前舞弄笔墨的编剧,相对而言已经算得上是最体面、最受优待的既得利益群体了。

にもかかわらず、他の制作スタッフには申し訳ないほど、しょうもない脚本が量産されている。

然而令人扼腕痛惜的是,拿着相对丰厚报酬的编剧界,却在大批量炮制着那些粗制滥造、味同嚼蜡,甚至让人觉得对不住基层血汗原画师拼死作画的烂俗垃圾剧本!

脚本家なんかいらないよ、あるとかえって迷惑だ、というような作品も、時々見受けられる。

甚至在市面上,时不时就会赫然冒出一些让人忍不住扼腕痛骂‘这种动画根本不需要编剧插手,你们编剧硬插一脚反而是添乱帮倒忙’的灾难性劣作。

そんな中で、今後のアニメ脚本はどうあるべきなのか……。

身处这般泥沙俱下的历史十字路口,未来的日本动画剧本,究竟理应去向何方……?

僕が出会った実例がある。

关于这个叩问,我愿意在此向诸位分享一个我年轻时代亲身经历的鲜活往事。

30年以上昔のことである。

那是距今整整三十多年前的悠悠旧事了。

まだ、企画状態の『まんがはじめて物語』の制作会議だった。放映予定は半年、しかも裏には大相撲中継がある土曜午後5時半だった。

彼时,《漫画日本物语》(まんがはじめて物語)这部日后名垂青史的开创性巨作还仅仅停留在企划草创阶段的最初剧本例会上。制作方最初预定的播出周期仅有短短半年,而且播出的时间档被极其残酷地死死钉在每周六下午五点半——在那个时段,各家电视机屏幕上几乎全在雷打不动地转播国民级统治地位的大相扑全国大赛季!

誰も視聴率など期待していなかった。

在相扑大潮的死死压制之下,台里上下根本没有任何人对这部动画的收视率抱有哪怕一丝一毫的幻想。

大きな会議場に局やらスポンサー、制作スタッフほか、商工会議所の何十周年記念作品ということで会議の人数はやたら多くて、番組監修者として有名なSF作家もいらしていた。

在那间巨大气派的高规格会议厅里,电视台高层、各大企业赞助商代表、主力制作团队齐聚一堂;加之该企划挂着日本商工会议所成立数十周年纪念大作的宏大名头,与会人员规模庞大得惊人;而端坐在最核心主位上的节目总监修顾问,正是全日本赫赫有名、泰山北斗级的殿堂级科幻巨擘(注:即写下《日本沉没》《复活之日》的日本科幻教父小松左京)。

それぞれが名刺交換して、席の順に、番組に対する抱負を述べ始めた。

在繁琐的互换名片社交寒暄之后,按照座次顺位,各路大员开始轮番登台,煞有介事地阐述自己对这部动画的崇高抱负与政治正确方针。

「子供に楽しく分かりやすい学習番組」という意見がほとんどであり、それがこの番組としては当然のことに思えた。

席间绝大多数人的发言千篇一律、陈词滥调:‘我们一定要将其打造成一部寓教于乐、让孩子们在欢声笑语中汲取知识的纯洁少儿科普教育节目!’——作为一部官办纪念作,这似乎是最四平八稳、无懈可击的标准答案。

たまたま1話を書く予定の若くて生意気な脚本家らしき男に発言の順番が回ってきた。

不知不觉间,发言的话筒恰好轮到了坐在角落里、预定负责执笔第1集剧本的一位不知天高地厚的年轻狂妄编剧——也就是当年二十多岁桀骜不驯的我首藤刚志。

この脚本家、同じ局の『まんが世界昔ばなし』というアニメで、あまり知られていない昔話のストーリーを、好き勝手に変えてしまう男で、「もともと、昔話なんて原典がはっきりしないものが多いんだから、この脚本が気に入らないなら降ります」と、平気で言っているような脚本家もどきだった。で、プロデューサ側も監督も「どうせ知られていない昔話だし、面白ければ、ま、いいか」ってな調子で、いつの間にか『まんが世界昔ばなし』の脚本のレギュラーになっていた男だった。

这位年轻编剧,此前曾在同一家电视台播出的《漫画世界民间童话》动画里,专门挑选那些鲜为人知的冷门民间传说大肆魔改、信马由缰,甚至屡次在剧本会上狂妄撂挑子:‘民间童话本就是口口相传、原典众说纷纭的产物,既然如此老子爱怎么改就怎么改;要是制作方嫌弃我这剧本不顺眼,那老子当场卷铺盖辞职走人便是!’面对这个软硬不吃的刺头怪胎,制片方与总导演反而抱着‘反正也是没人知道的偏门童话,只要改得足够生猛有趣,随他去吧’的放任心态,不知不觉间竟让他稳稳坐上了该节目的王牌主笔常驻席位。

その男は、「子供に楽しく分かりやすい学習番組」など書きたくなかった。

而这个狂妄的刺头男,从心底里最唾弃、最反感的,恰恰正是那种四平八稳、道貌岸然的‘寓教于乐少儿科普大课堂’。

で、言った。

面对全场黑压压的大佬目光,我清了清嗓子,当场抛出了惊世骇俗的狂言:

「○○年に誰が何を発明した、なんて教科書で暗記させられるようなことは書きたくありません。そのものが、なぜ、この世の中に必要で発明発見されたのか、そのニーズ、必要性を書きたいと思います。といったって、昔の人の気持ちは分かりませんから、僕にとっての必要性を書きたいと思います。つまり、電気のない時代に僕が生まれたら、電気が必要かどうか。汽車のない時代に生まれたら汽車が必要かどうか。自分を中心に考えた必要性を面白おかしく書くつもりです」

‘诸位,在公元某年某月究竟由哪位伟人发明了什么事物,这种死记硬背教科书考点式的无聊勾当,我首藤刚志打死也不想写半个字!我真正渴望探究并呈现的,是某件事物究竟是在怎样的时代阵痛与人类绝境之中、因何种无法遏制的迫切需求才被倒逼发明创造出来的!虽然话虽如此,我一介凡人又不可能当真穿越回古代去通晓古人的心理,所以我只打算写属于我首藤刚志自己的切身需求!换句话说:假若我首藤不幸降生在一个没有电力的漆黑时代,我究竟需不需要电?假若我被扔在没有火车的绝望蛮荒,我究竟需不需要蒸汽火车?我将彻头彻尾以我自己的感官与欲望为绝对坐标系,去把这份真实的人性需求写得妙趣横生、滑稽生动!’

すると、小説で「日本」を「沈没」させた監修のSF作家の大家が言った。

话音刚落,端坐在上席正中央、曾在长篇巨著中亲手将整个‘大日本帝国’彻底‘沉入海底’的当世科幻泰斗小松左京先生,缓缓抬起头来,沉声开口:

「もう、私の監修は必要ないでしょう。後は、首藤さんにおまかせします」

‘诸位,看来这部作品从今往后,已经根本不再需要我小松左京的任何监修了。大局已定,剩下的全盘重任,统统放手托付给首藤先生吧!’

びっくりした。名刺交換しかしていないのに僕の名前を覚えているSF大作家の記憶力に……。

我当场如遭雷击、呆若木鸡。最让我震撼的,甚至是仅仅在开场初次换过名片的一面之缘,这位享誉全日本的泰斗大师居然一字不差地牢牢记住了我这个无名小卒的姓氏……

他の方たちは、SF大家のさっさとした決断力に驚いた。

而在座的其他各方首脑大佬,则无不被小松大家那份雷厉风行、一锤定音的宏大气魄震撼得目瞪口呆。

そして、みなさん、ほんとうにやりたかったのは「子供に分かりやすい学習番組」などというありふれたものではなく、他の「何か」だったのだ。

那一瞬间,整座大厅里原本被官僚教条压抑的灵魂仿佛骤然苏醒——因为在座的每一个人心底真正期盼的,从来就不是那种唾手可得的平庸科普片,而是某种此前从未在银幕上破土而出的、炽热鲜活的‘崭新之物’啊!

結局、「こんな番組ができるの?」で始まった「まんがはじめて物語」シリーズは、大相撲に負けずに13年続いた。ちなみに、違う局で同時刻、ニュータイプの「ロボットもの」も始まった。僕が、小田原出身の富野氏とお会いしたことがあっても『ガンダム』のことを全然知らないのは、こんなわけである。

最终,在全行业一片‘这种离经叛道的节目当真能做出来?’的惊疑揣测中启航的《漫画日本物语》系列,不仅在周六傍晚硬生生顶住了大相扑全国转播的狂轰滥炸,更奇迹般一路狂飙连播了整整十三年!顺便提一句,就在该系列开播的同一历史时期、另一个电视台的完全同时间档上,一部讲述所谓‘Newtype新人类觉醒’的划时代机器人大作亦悄然破土公映(注:指富野由悠季执导的《机动战士高达0079》初代于土曜午后五点半档首播)。正因当时我们两方在同一时间段死死拼杀对抗,即便后来我与同为小田原同乡的富野由悠季先生数度把酒言欢相谈甚欢,但我对他的那部《高达》神作却至今近乎一无所知,其缘由正是这段宿命的纠葛。

打ち切りにならないようなロボットものが『ゴーショーグン』で、おもちゃの売れる魔女っ子ものが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』で、というふうには作ってない(実際の売れ行きは知らないが)。「こんなアニメできるの?」と聞かれたら「こんなアニメしか僕にはできません」が僕のスタンスで、現在まで来てしまった。

我当年在写《战国魔神豪将军》时,从未盘算过如何才能讨好赞助商避免被中途腰斩;在执笔《魔法公主明琪桃子》(甜甜仙子)时,我也从未算计过到底怎么写才能让塑料玩具大卖脱销(虽然我至今也搞不清当年玩具销量到底如何)。每当有人质疑我‘你居然敢做出这般光怪陆离的动画?’时,我的回答数十年如一日唯有一句:‘实在抱歉,除了这般赤裸的动画之外,我首藤刚志这辈子根本无能为力写出任何其他东西!’——这正是我坚守了一生的做人风骨,并一路磕磕绊绊走到了生命的今天。

アニメは1人では作れない。けれど、「こんなアニメの脚本ができるのなら、私も私のやりたいことをやってみよう」と、スタッフやキャストのやる気がそんな感じで膨らんで、作品がグレードアップしていった気がする。

动画绝非一人之功。然而,倘若剧本里能流淌出‘既然那个混账编剧居然敢端出如此无法无天的剧本,那我作为原画师/声优,何不也索性借此大干一场、把老子这辈子最想干的私货尽数倾注进去!’的狂气,整个制作团队与声优阵营的创作野心便会被彻底点燃并无限膨胀,整部作品由此在碰撞中被不可思议地淬炼升华到了超凡入圣的全新境界。

僕は書くことが嫌いである。だから、最低限、自分のやりたいものしかやらなかった。

我生来就讨厌写作。正因如此,在最低限度上,我这辈子只肯去碰自己真正想写的东西。

やりたくないものはやらないで済んでしまってきた。

凡是我心生抗拒、不愿提笔之物,我终究都任性地将其彻底弃置、未曾违心沾染半分。

僕の名前の出ている作品は、「こんなことやれるなら、私もやる」という、スタッフ・キャストのやる気のたまものでもある。

凡是堂堂打着我首藤刚志名号的所有传世作品,其本质无一例外,全都是整个团队在心底被点燃了‘既然首藤那家伙能这么玩,那我也豁出去了!’的血气之后,全员合力迸发出的无上奇迹结晶。

ね、こんなことなら、「誰でもなれる脚本家」という副題に嘘はないでしょう?

你看,既然真相不过是这般纯粹与赤裸,那么我专栏副标题上所郑重宣称的‘人人都能成为编剧’,就绝无半句虚言与欺瞒了吧?

おわり

(全剧终)

02

●后记(绝笔终章)

で、まあ、「えーだば創作術」はおわりです。

好啦,那么行文至此,《爱咋咋地创作术》的连载就正式彻底宣告完结了。

何度もの休載があり、「えーだば」では済まないとは思いますが、我慢してくださった編集の方、なにより読者の方々に感謝の言葉もありません。

连载期间经历了无数次因病休刊断更,我知道这绝非仅仅一句轻飘飘的‘爱咋咋地’就能轻易告解赎罪的;对于以近乎无限的耐心包容我的编辑先生,以及最重要的——多年来不离不弃陪伴我走到终局的各位读者朋友们,我胸中唯有化作无尽的感激,乃至千言万语亦难以言表其万一。

この歳になり思い返せば、実際の話としては、初回のはじめてにして最後に脚本家になろうと決意するまでの話が、かなりドラマチックかつどたばた喜劇で「ほんまかいな?」が連続でおかしいのですが、その時代はもはや遠く、今の人が真似をできるはずもなく「誰でもなれる脚本家」の趣旨とは違ってしまうので、はぶきました。

活到了这个岁数抚今追昔,倘若当真要从头交代我生平第一次、也是最后一次下定决心成为一名职业编剧的真实原委,那其实是一连串比荒诞剧还要戏剧化、充斥着无数次让人拍大腿失声惊呼‘世上居然还有这等离谱破事?!’的滑稽闹剧大合集;然而那个草莽时代早已随风飘逝、一去不返,当下的年轻人绝不可能再去复刻当年那般荒唐的路径,这也与本专栏‘人人皆可胜任’的初衷背道而驰,因此我便狠心将其尽数略去了。

このコラムに書かなかった私生活の部分も、抱腹絶倒の悲喜劇が、連続していました。

至于在专栏里未曾向世人吐露的我那荒诞不经的私人生活,更是由一出接一出令人捧腹绝倒、却又笑中带泪的苦涩悲喜剧连绵编织而成。

ま、僕の書くものより、そっちの方が面白いかもしれません。僕が客観視できればね。

平心而论,比起我正儿八经写出的那些剧本,或许我这前半生的荒诞遭遇本身反而要精彩有趣得多吧。当然,前提是我自己有朝一日能够跳脱出来、以绝对客观冷静的眼光去审视它们的话。

その時代の登場人物が死に絶えて、僕だけが生き残っていたら、じじいの戯言として聞いてもらうことがあるかもしれません。

倘若有朝一日,那个草莽时代的各路风流人物尽皆撒手人寰、化作尘土,而唯独只有我首藤刚志一个人侥幸苟延残喘到了最后——那么到了那时,或许我会把那些陈年旧事,当成行将就木的糟老头子的胡言乱语,再讲给大家权当消遣听听吧。

では……おつかれさまでした。

那么……辛苦诸位了,大家受累了。

正直言って、気楽にアニメの脚本家は目指さない方がいいと思いますよ。

但摸着良心说句大实话:如果可以的话,我真心劝告诸位,最好千万不要怀着随随便便、轻浮玩票的心态去立志当什么动画编剧哦。

言っても無駄でしょうが……。

虽然我知道,任凭我把嘴皮子磨破,对你们这帮倔强痴狂的家伙也根本是耳旁风、说了也白说就是了……